本稿は,ドキュメンテーション教育に関する純粋に学術的な研究成果というよりも,ウエスタン・リザーヴ大学に身を置き,この領域に於ける発展を経験した筆者の観察が大部分を占めるものである。
ドキュメンテーションという言葉が現在の意味で米国に於て用いられ始めたのは1950年頃であるが,筆者は自分の図書館員および教員としての経験から,情報の発生,記録,出版,配布などの面から出発し,それがいかに整理されるかという一貫した過程を学生に納得させる必要を感じた。そこで,1948–49年にかけては“書誌的体系の整備”に関する選択科目を設け,つづいて1949–50年には“索引および抄録”の科目を設けた。さらに,1950年には,上記週1時間の2つの選択科目を合せて,週3時間の“ドキュメンテーション”という科目を設けた。この科目を通して,学生は少くとも,問題の所在およびインフォメーション伝達の完全なサイクルについての理念を持つことができ,幾分かの技術はマスターしたと考えられる。
この頃から,マイクロリプロダクションおよび計算機の利用が盛んになりはじめ,従来の分類・索引の理論および実際的利用に対して再検討を加える必要が出てきた。そこで筆者の担当する上述のコースに,1954年に至って,“コーディネイト・インデクシング”および“技術報告書”のユニットを加えることにした。
その後も,この方面の進展は目覚ましく,1955年には情勢に即応し研究を進める目的を以て,バッテル・インスティテュートからペリー,ケント両氏を迎え,“情報・通信研究所(C.D.C.R.)”を設立する運びとなった。この研究所の活動および1956年1月に開かれた会議の影響を受け,1956年春の筆者の科目では,情報の危機,機械化の問題,主題分析,コーディング法などが強調されるようになった。同年春,ペリー氏は“文献探索の機械化”の最初の科目を教授し,同年から翌年にかけては,さらに“言語工学”の科目が追加された。それにつれて,筆者担当の科目内容も変更を見るに至り,3つの科目がドキュメンテーションを総合的に扱うようになった。
この間に研究所の仕事は着々と進展し,現在のGE225の母体である計算機がペリー氏の手により完成され,アメリカ金属学会と提携した研究も開始された。このような状況の変化と,特定科目の設置により,筆者担当の科目は,ドキュメンテーションに関心を有しない学生にもそれが何であるかを納得させ,原理的事項およびそれに伴う技術の必要性を解説する傾向を帯びるに至った。そのためには,急増するこの分野の文献に目を通すことが必要であり,その中から重要な問題を抽出して科目の中に採り入れるように試みてきた。
特定のコースとしては,“マイクロ・レコーディングの図書館および企業体における利用”(2年後廃止),“ドキュメンテーション特殊研究”,“専門情報機関”,“計算機による情報処理”,“文献探索の機械化”などの科目が1958年から1962年に亘って順次開設され1963–1964年には“図書館技術のオートメ化”,“L.R.システムⅠ”,“同Ⅱ”,“計算機による情報処理”,“言語自動処理”,“I.R.理論―概説”,“専門情報機関とサービス”という形に統合され,現在に至っている。この他1953年から,シエラ氏による“分類理論”の講義が行われていることも付加する必要があろう。
現在でも,この領域における発展に備えてカリキュラムをいかに編成すべきかという点で論議が戦わされているが,博士課程の必要が増大し,また情報科学に関する講義を図書館学校以外の学部・学科で取れる組織を考える必要に迫られていると言えよう。
現在の情報の処理および利用の発展状況を考えると,図書館学とドキュメンテーションは一体と見なされねばならぬという感が深い。それに伴い,将来においては,従来の“ドキュメンテーション概説”を2分し,1科目は,特にドキュメンタリストになる意志を持たない学生に,その意図するところを充分に理解させることに重点を置き,他の科目は,ドキュメンタリストおよび情報科学者志望の学生に,ドキュメンテーションと図書館学の関連の全体像を与え,図書館員の寄与を認識させることにしたいと考えている。
最後に,一つ確実に言えることは,ドキュメンテーションの科目は,常に変貌を遂げてやまないであろう,ということである。
(M. F.)
© 1965 三田図書館学会© 1965 Mita Society of Library Science
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