Library and Information Science

Library and Information Science ISSN: 2435-8495
三田図書館・情報学会 Mita Society for Library and Information Science
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Library and Information Science 84: 1-21 (2020)
doi:10.46895/lis.84.1

原著論文Original Article

図書館情報学における存在論の対立Gnoliの存在論的複数主義とHjørlandの存在論的一元論の比較Ontological Conflict in Library and Information Science: A Comparison of Gnoli’s Ontological Pluralism and Hjørland’s Ontological Monism

筑波大学図書館情報メディア系Faculty of Library, Information and Media Science, University of Tsukuba ◇ 〒305–8550 茨城県つくば市春日1–2 ◇ 1–2 Kasuga, Tsukuba, Ibaraki 305–8550, Japan

受付日:2019年11月28日Received: November 28, 2019
受理日:2020年3月31日Accepted: March 31, 2020
発行日:2020年12月26日Published: December 25, 2020
HTMLPDFEPUB3

目的】本論の目的は,存在論という視点で,哲学と図書館情報学の関係を検討することである。

方法】本論は,図書館情報学における文献に基づく分析を行う。Gnoliの存在論的な複数主義に関わる論文とHjørlandの存在論的な一元論に関わる論文が比較検討される。

結果】Gnoliの複数主義とHjørlandの一元論の間の係争点は,以下の三つであることが指摘される。一つ目は,心の哲学における二元論が非科学的かどうかということ,二つ目は,ドキュメントとは何かということ,三つ目は,抽象的存在者についてどのように考えるべきかということである。そして,それらの論点については,以下の三つのことが明らかにされる。一つ目は,心の哲学における二元論や複数主義を非科学的という理由で簡単に捨て去ることはできないということである。二つ目は,Gnoliが抽象的存在者としてのメンティファクトを認めようとしている一方で,Hjørlandは物的存在者としてのドキュメントを考えるならば事足りると考えているので,存在論を検討する際に,心の哲学での二元論と一元論の対立だけが問題ではないということである。三つ目は,抽象的存在者が必要かどうかに関しては,両者の当該の議論だけでは決定的な答えを出すことができないということである。しかし,GnoliとHjørlandの論争を比較検討することによって,存在論における論争を解決するための手がかりが示される。その手がかりとは,図書館情報学における研究課題を解決できるかどうか,図書館情報学における中心的な現象をうまく説明できるかどうかということである。

Purpose: This article aims to discuss the relationship between philosophy and library and information science from an ontological point of view.

Method: This study applies a literature-based analysis to library and information science. Gnoli’s articles on ontological pluralism and Hjørland’s articles on ontological monism are compared and examined.

Results: Three points of contention between Gnoli’s pluralism and Hjørland’s monism are identified. The first is whether dualism in the philosophy of mind is unscientific. The second concerns what comprises a document. The third is how to think about abstract entities. Regarding these issues, the following three points are clarified. First, dualism and pluralism in the philosophy of mind cannot be easily dismissed as unscientific. Second, while Gnoli seeks to acknowledge mentefacts as abstract entities, Hjørland believes that it is sufficient to consider documents as material entities, so the conflict between dualism and monism in the philosophy of mind is not the only problem when considering ontology. Third, the question of abstract entities cannot be answered conclusively by their own arguments. However, a comparative review of the arguments of Gnoli and Hjørland provides clues to resolving these issues in ontology. The key is whether we can solve the research problems in library and information science as well as provide satisfactory explanations of the field’s central phenomena.

I. はじめに

『図書館・情報学研究入門』の「図書館・情報学への招待」1)で,緑川は,図書館情報学とは,“人間の知的活動によって生産された情報の諸側面を研究する学問”[p.185]であると言っている。また,石井は,『図書館情報大学史:25年の記録』の「図書館情報学の展望:知識共有の総合科学」2)で,図書館情報学は,“社会における知識の共有を保持するという社会的価値を持つ総合的領域であり,人間の本質的な在り方としての知識共有という現象に注目した領域”[p. 31]であると述べている。人間の知的活動や知識の共有は,哲学の古くからのテーマの一つである。また,邦訳が『図書館情報学概論』である,David BawdenとLyn RobinsonのIntroduction to Information Science3)の第3章は,「情報学の哲学・パラダイム」であり,そこでは,哲学における,存在論や認識論,倫理学が図書館情報学と関わりうることが述べられ,Karl Popperの認識論やLuciano Floridiの情報の哲学についても言及されている。そのようなことを考えるならば,哲学は,図書館情報学と密接な関係にあると考えてよいだろう。

横山は,以前,図書館情報学と哲学に密接な関係があるとの前提のもと,図書館情報学と哲学の関係について論じられることが少なかったというBirger Hjørlandの指摘4)の重要性に着目し,また,Library TrendsJournal of Documentationで,それぞれ2004年5)と2005年6)に図書館情報学と哲学に関する特集が組まれたことが図書館情報学内で哲学についての関心が高まっている証拠だと捉えた。そして,「哲学と図書館情報学の関係:図書館情報学における哲学に関する英語論文を基に」7)において,図書館情報学と哲学の関係についてどのように論じられてきたかを見ることにより図書館情報学と哲学の関係を考察した。

そこで明らかになったことは,図書館情報学において哲学を考えることが目指しているものは,存在論的,もしくは認識論的にどのような立場をとることが,図書館情報学研究をより実りあるものにできるかを示すことであり8),存在論的・認識論的アプローチの違いが,図書館情報学研究にどのような違いをもたらすのかが問題であるということであった。けれども,そこでは,どのような存在論的・認識論的アプローチが図書館情報学研究にとって適切であるか,また,図書館情報学研究一般にふさわしい存在論的・認識論的アプローチがあるのか,それとも,折衷主義が望まれるのかということについては論じなかった。

本論では,上記でははっきりと明記していなかった存在論的な話と認識論的な話の違いを明確化したうえで,存在論について対立している近年の具体的な論文を対象とすることによって,それらの論文の中で存在論の違いがどのように現れるのかを実際に検討する。そして,対立する二つの立場に対してどちらかの優位性を示すためには,どのような点に注目しなければならないのかを明らかにすることを目指している。

存在論に着目するのは,認識論の立場の違いが図書館情報学研究にどのように影響を与えるのかについては,Hjørlandが詳しく論じているからである。たとえば,彼は,認識の方法論としての経験主義,合理主義,実証主義と図書館情報学研究の関係について論じる中で,図書館情報学においては,情報システムデザインで一般化されたモデルを求める等,実証主義がまだ支配的だということを指摘している9)。また,彼は,認識論と図書館情報学研究の一般的な関連性だけにとどまらず,具体的な例に関しても検討している10)。彼は,そこで,合理主義(認知主義も含む),経験主義,歴史主義,プラグマティズムというそれぞれの認識論がインデックスの理論にどうかかわるかを論じ,インデックスの理論がうまく行くためにはJesse Sheraに起源を持つ社会認識論11)が必要だと論じている。

もちろん,どのような存在論をとるかは,どのような認識論,もしくは研究アプローチをとるのかということと関係する。それゆえ,本論でも認識論の違いに言及することになる。しかし,主たる検討対象は,存在論としたい。

存在論について対立している近年の具体的な論文として考えられているのは,2018年のClaudio Gnoliの論文Mentefacts as a missing level in theory of information science12)と2019年のHjørlandのそれに対する批判論文The foundation of information science: One world or three? A discussion of Gnoli(2018)13)である。Gnoliは複数主義的な存在論を唱え,それに対して,Hjørlandは一元論的な存在論を唱えている。

上記の目的のために,まず,認識論と存在論についての一般的な区別を確認したうえで,Gnoliの論文とHjørlandの論文の主張を概観することから始めたい。それから,二人の対立点がどこにあるのかを整理し,それぞれの主張の根拠を検討する。そのあとで,それらの論争点に決着をつけるためには,どのような視点が必要なのかを検討する。

II. 存在論と認識論

哲学という学問領域を考えるとき,存在論や認識論は,その学問領域を構成するものである。存在論は,形而上学と同一視されることもある。『岩波哲学・思想事典』によれば,西洋の学問の歴史の中での存在論とは,“古代ギリシア以来の伝統的な西洋哲学の基礎部門。特定の領域に限定された特殊な存在者の存在様態や構造を探求するのではなく,およそあるといわれうるもの一般,いいかえれば存在するかぎりでの存在者一般,あるいは存在(あるということ)一般の意味,構造,様態等を主題的に研究する哲学の基礎分野をいう。存在論はまた,…一般に第一哲学あるいは広義での形而上学とも同一視される”14)ものである。西洋の学問の歴史の中での認識論とは,同じく『岩波哲学・思想事典』によれば,“知識,認識など,「知ること」「知っていること」に関する哲学的な考察仕方の総体。…また事実的認識についての理論のみでなく,そうした認識の方法,範域,根拠,限界等の反省的認識についてのメタ理論も認識論に含まれる”15)ものである。

何が存在すると考えるかという問題は存在論に属し,どのようにして知られることができるかという問題は認識論に属する。たとえば,「赤」という抽象的存在者が存在すると考えるのか,それとも赤いものだけがあって「赤」は存在しないと考えるのかは,存在論の問題である。近年,AI研究や脳神経科学研究の発展によって注目される,物的なものとは異なる「心的なもの」が存在するのかどうかという問題も,存在論の問題である。つまり,存在者としてどのようなものを認めるかは,存在論の大きな問題のひとつである。それに対して,われわれの知識の源が経験であると考えるのか,それとも経験は当てにならず,理性によって知識を得ることができると考えるのかは,認識論に関する対立である。

もちろん,どのような存在論をとるかということは,どのような認識論をとるかということと関係しうる。イギリス古典経験論のように,知識の源は経験だと考えるならば,存在するのは外的事物ではなく,われわれが心の中に持つ観念だと考える方向に進みやすい。しかし,どのような存在論をとるかということは,やはり,どのような認識論をとるか,そして,狭い意味では,どのような認識の方法,認識論的アプローチが適切であると考えるかとは一対一対応をなしているものではない。

本論では,「存在者として何を認めるか」についての立場を存在論的立場と呼ぶ。そして,どのようにしたら知識に到達できるかという考えの違いを認識論的立場の違いと考える。

以上のように,存在論と認識論の違いを確認した。次の問題は,Gnoliの論文とHjørlandの論文の主張がどのようなものかを概観することである。

III. Gnoliの考え

Gnoliは,Mentefacts論文12), 16)の中で,図書館情報学(LIS)17)における問題,特に知識の組織化(KO)18)における問題を考える際に,存在論として一元論ではなく複数主義を採用することの重要性を論じている。ここでは,そのGnoliの主張がどのようなものであるかを確認したい。

Gnoliは,図書館情報学と知識の組織化が密接に関係しているということを認めたうえで,“LISとKOの理論は,存在論的側面と認識論的側面の両方を含んでいる”12)[p. 1226]と言う。彼によれば,存在論的側面は図書館情報学や知識の組織化において研究される対象が何なのかに関係しており,研究に際しどのような方法論的選択をするかを検討することは認識論的側面に属している。

そして,Gnoliは,Hjørlandの論19, 20)も引用しながら,図書館情報学と知識の組織化における近年の方法論には二つの主要なもの,認知的アプローチと社会学的アプローチがあり,それらが対立していることを確認する。Gnoliによれば,認知的アプローチとは“個々の知識使用者の個人的経験を強調する”12)[p. 1227]ものであり,社会学的アプローチとは“知識を特定の社会的な文脈における言語共同体の表現だと考える”12)[p. 1227]ものである。

Gnoliは,この論文で,図書館情報学と知識の組織化の理論における存在論的側面が,認識論的側面に影響を与えるとする。そしてそのうえで,どのような存在論を考えるなら,認知的アプローチと社会学的アプローチが排他的のものなのではなく相補うものであると考えることができるのかを示そうとするのである。

そのために,Gnoliは,まず,Roberto Poliの論文21)に言及して,実在のレベルについての理論を検討する。実在のレベルについての理論とは,“実在における一連の異なるレベルを同定するものであり,それぞれのレベルはより低いレベルに基礎を置くが,また,より低いレベルによって所有されていない新たに出現した諸性質をも示している”12)[p. 1228]と考えるものである。そして,レベルの理論では,レベル間には一定の秩序があると考えられている。Gnoliは先の引用に続けて,レベルやそれぞれのレベルの中のレイヤーについての例を挙げている。“たいていの著者によって一般に認められている主なレベルには,物質,生命,心,社会がある。それらは,さらに,連続したレイヤーへと分析されうる。たとえば,生命は,細胞,有機体,個体群というレイヤーを含む”12)[p. 1228]。そのようにレベルの理論について概観したあとで,彼は,哲学的な分野におけるレベルの理論を参照し,それを説明するのである。彼が参照するのは,Nicolai Hartmannの考え22, 23)とKarl Popperの考え24)–26)である。

Hartmannの四つの主なレベルは,物質的なもの,有機的なもの,心的なもの,精神的なもの(人間の文化に関わるもの,したがって情報や知識やそれらの組織化もそこに属する)である。精神的なもののレベルは,さらに三つのレイヤー(個人的精神:personal spirit,客観的精神:objective spirit,客観化された精神:objectivated spirit)に分けられる。Hartmann自身は,個人的精神,客観的精神,客観化された精神は精神的存在の三つのカテゴリーであり,三つの存在形式と考え,個人的精神も客観的精神も生きた精神である一方で,客観化された精神は死んだ精神であり時間を超えているとしている23)。そして,Gnoliは,その考えを受け,個人的精神は認知的アプローチにおいて焦点を当てられた個々の利用者の知識と,客観的精神は社会学的アプローチで焦点を当たられた知識の社会的共有と関係しており,客観化された精神はその生産者から区別されたものとしての人間の産物と関係しているとするのである。

この客観化された精神のレイヤーと類似した考えが,Popperの世界3である。世界3は,物質の世界,意識の世界と並ぶ,文化の世界である。Popperにおいても,世界3は意識によって生み出されたものであるが,それを生み出した意識から独立した地位を持っている。そして,Gnoliによれば,このPopperの考えは,種々の批判27)がなされているとはいえ,Bertram Brookes28)などの影響もあり,Hartmannの考えよりも図書館情報学や知識の組織化の分野では馴染みのあるものなのである。

Gnoliによれば,客観化された精神や世界3が,その生産者から独立したものとして扱われるということは,ある理論がいったん定式化されるならば,それが他の人も扱うことができる対象となるということを意味する。素粒子の理論は,他の科学者によって補足されたり,偽とされたりすることができる。そのため,他の科学者たちは,理論のもともとの提案者が予測していなかった実験をすることができるのである。

そのように哲学者のレベルの理論を紹介した後で,Hartmannの客観化された精神やPopperの世界3に相当するものが知識の組織化の議論の中にもあり,それがメンティファクト(mentefact)であるとGnoliは言う。彼は,その語を,図書館情報学の中ではCRG(the Classification Research Group)のBarbara Kyle29, 30)に帰し,彼女がEarle Eubankらの社会学31)の影響も受けてメンティファクトという語を使ったのだろうと推測し,その社会学における考えは,生物学者であり哲学者であるJulian Huxley32)(メンティファクトと他の文化的産物を自己再生産という点に焦点を当てて区別している)にも影響を与えていたとしている。いずれにせよ,形而上学的な実体であるメンティファクトという考えが,図書館情報学や知識の組織化の中で表れているというのが,Gnoliの考えである。彼によれば,アーティファクト(artefact)を有形文化遺産,メンティファクトを無形文化遺産に対応するものと考えることができるのである。そして,Hartmannの客観化された精神はメンティファクトとアーティファクトからなり,Popperの世界3はメンティファクトとアーティファクトとソシファクト(socifact: Hartmannの客観的精神に相当するもの)からなるとし,アーティファクトとメンティファクトの区別は哲学者の区別よりも細かいと述べるのである。

Gnoliによれば,“HartmannやPopperのようなレベルの理論は,二つのやり方でLIS-KOに関係している”12)[p. 1229]。その二つとは,“一つは,研究対象としての情報や知識の地位を評価すること,もう一つは,知識の組織化システム(KOS)におけるすべての研究対象を秩序付けること”12)[p. 1229]である。そして,メンティファクトとアーティファクトを区別しているレベルの理論についても同じことが言えると考える彼は,現象の関係するクラスを知識の組織化システムにおいてリスト化する際にその区別がどのように関係するのか(先の引用の後者に対応),図書館情報学と知識の組織化の理論を明らかにする際にその区別がどのように関係するのか(先の引用の前者に対応)を論じるのである。

まず,クラスのリスト化についてGnoliがどう考えるのかを見てみたい。彼は,統合的レベル分類(Integrative Levels Classification)などにおいて,主なクラスを同定するために,レベルの理論が使われていると言う。

統合的レベル分類とは,統合的レベルの理論に基づく分類である。D. J. Foskettによれば,統合的レベルの理論とは,普遍を分けるために役に立つ原則であり,“事物の世界は,新しい異なる性質の蓄積によって,単純なものから複雑なものへ発展する。そして,ある点で,一つのグループ,もしくはクラスのメンバーから新しいグループのメンバーへと「実体」を変形する変化が生じる。その新しい実体は,その内部に組織化の新しいレベルに特徴的なそれ自身の諸性質を持つ。そしてそれは,また新しく特徴的な仕方で振舞う”33)[p. 136]ということを,意味するものである。そして,Louise Spiteri34)によれば,CRGは,最初に要素を分けてそれからそれがどのような知識の領域を決定するかを考えるという,分類に対するボトムアップ的なアプローチの基礎として,統合的レベルの理論を考えたのである。

統合的レベル分類の際にレベルの理論がどのように使われているかについては,Mentefacts論文12)の中では詳しくは説明されていないが,Classifying phenomena Part 2: types and levels35)ではそれが詳しく説明されている。彼は,その論文において,知識の組織化においては分類されるべき第一のユニットとして現象を考えるべきだと主張し,“現象はどのような基礎に基づいてクラスにグループ分けされ,クラスはどのようにして秩序付けられたアレイや,タイプのヒエラルキー的なチェーンに配置されることができるのかを議論することによって,現象に基づいた分類が現実にどのように実現されるかを検討する”35)[p. 37]。彼によれば,“あるアレイにおいて,クラスは任意の規準によってソートされることができる”35)[p. 40]。そして,ソートするための一般的な原則の候補として,組織のレベルがあるのである。それは,時間,進化,複雑性と結びついている。より高いレベル,より低いレベルという隠喩を,Gnoliは建物になぞらえている。より高い要素はより低い要素に基づくことが必要である。けれども,より高い要素はより低い要素に還元可能なものではない。彼は次のように言っている。“われわれは,派生した現象のクラスはより高いレベルであり,その存在はより低いレベルのクラスの存在を前提しているが,同時にそれらに何らかのものを付け加えると言う。…還元主義者的な記述は,新しい性質を説明することに失敗するだろう”35)[p. 40]。そして,そのことは,レベルが部分の和より大きいという進化論的な考えに通じ,レベルが静的な状態と見なされないことを意味するのであり,そのようなレベルを考えることは,知識の組織化に役に立つというのである。彼は次のように言っている。“レベルのパターンが現象のすべてのクラスを包み込むことができるとき,それは,知識を全体的な体系に組織化するための役に立つ原則を与える”35)[p. 43]。

Gnoliがその流れにあるCRGは,アーティファクトとメンティファクトという考えを標榜している。CRGのメンバーで,メンティファクトという語を導入したKyleの例29)[p. 302]では,ディジットや数詞や方程式や数学,文字やアルファベットや文法やシンタックスや言語,価値判断や倫理体系や哲学,等がメンティファクトの例として挙げられている。Gnoliによれば,“メンティファクトはディジットやアルファベットのような初歩的な知識を含み,それからますます複雑な構成へと進む”12)[p. 1235]。それは,先に見たレベルの動的な考え方と結びつくのである。

実際にレベルの理論がCRGの流れの中で使われているとしても,そのことは,メンティファクトという存在者が必要だという理由になるのかが問題である。それゆえ,次の問題は,図書館情報学と知識の組織化の理論にとってメンティファクトはいかなる意味を持つのかである。Gnoliは,“客観化された精神という考え,そして特にメンティファクトという考えが情報学の理論的な基盤をより明らかにするために役にたつ”12)[p. 1236]ということを主張しようとする。彼によれば,そのような存在者を考えることによって,認知的パラダイムと社会学的パラダイムの対立からの弁証法的な発展によって,両方のアプローチが相補うものであるという新しい方法論が生じるのである。

Gnoliによれば,一つの特定のレベルだけを認める一元論や,他のものを一つのものに還元しようとする還元主義は適切ではない。社会が知識の分析に無関係だと考えている認知的還元主義も,情報や知識の分析を社会学的なものにのみ還元できるとする社会学的還元主義もどちらも適切ではないのである。客観化された精神,もしくは世界3を認めることは,彼によれば,還元主義では説明できないものを認めることである。文化的なもののレベルは,社会現象のレベルと異なるものなのである。

Gnoliは,もちろん,それに反対する人々がいるのは知っている。たとえば,彼は,Popperの世界3が混乱していること,社会的レベルについての考察が欠けていることを指摘しているDavid Rudd27)の例を挙げている。しかし,Gnoliは,“人は,社会的レベル,そして,結局は社会学的アプローチが,また,情報学の完全なモデルを作るために必要とされるということに関して,Ruddに同意することができる”12)[p. 1236]ということを認めたうえで,レベルの理論が図書館情報学や知識の組織化の理論にとって必要だとするのである。

ここでのGnoliの考えは,おそらく,複数主義的な存在論をとり,それゆえに,すべての存在者に一つのアプローチを当てはめようとする認識論的見解をとらず,認知的アプローチと社会学的アプローチをともに考慮した新たなアプローチを知識分析の方法論として採用することが,図書館情報学や知識の組織化の理論的基盤となるというものであるだろう。なぜなら,文化的なものは,それよりも下のレベルに還元できない特徴をもっており,それを明らかにするには,新しいアプローチが必要だからである。複数主義的な存在論をとることの一つの利点として,認知的パラダイムと社会学的パラダイムの対立を解消できるということを考えているのである。

では,Gnoliが,複数主義という存在論が認識論的対立を調整できると考えている点とは別に,存在論自体の問題として,複数主義をとり,文化的レベルの存在者,客観化された精神,世界3,メンティファクトを認めなければならないと考える理由は何だろうか。彼は,“われわれがわれわれのモデルにおいてメンティファクトを必要とすることを示す一つの論拠は,ある現象はただそれらによってのみ説明されうるということである”12)[p. 1237]と言う。彼は,例として虚構的なキャラクターを考える。たとえば,ピノキオは現実の木からできているわけではないので,世界1には属さない。また,現実の主観を持っているわけではないので,世界2にも属さない。それらは,人間精神が生み出したものとして,世界3に属する。そして,ピノキオは,その作者の死後も存在し続けている。また,映画化や漫画化もされることができる。だとしたら,それらはメンティファクトとして説明されるということである。

また,Gnoliによれば,“実体のクラスが,ある存在論的モデルにおいて本当に必要とされているかどうかを調べるもう一つの基本的な規準は,それが何らかの因果的な力を持つかどうか尋ねることである”12)[p. 1237]とも言っている。そして,彼によれば,メンティファクトは因果的な力を持っているのである。彼は言う。“思考システムや他の文化的産物が人間の歴史に大きな影響を与えてきたことは明らかである”12)[p. 1237]。空気力学的な理論が,飛行機を生み出し,飛行機によって,人々の移動速度が上がったり,空気が汚染されたりしている。ペニシリンの理論は人々を救う。その点を彼は,地球が球体であるという理論を例に少し詳細に論じている。その理論がコロンブスを西に向かわせ,マゼランを地球一周させた。“メンティファクトのレベルに属する,ある理論が,物質的な船や生きている船乗りのレベルで,行動に対して因果的な力を持っていたということである。…メンティファクトのレベルを認めることなしには,ある歴史的な現象は理解されることができなかった”12)[p. 1237]。

Gnoliは次のようにまとめている。

メンティファクトが何らかの現象の存在を説明するために必要とされるので,そして,現実のより低いレベルへの因果的な力を持ちうるので,それらは,全体的な体系において別の主なクラスであるに値する。そして,それらは,情報学の理論によって見過ごされるべきではない。全く反対に,それらは,情報学を社会学や心理学から区別する非常に特有な性質を含む構成要素である。社会と心は知識が生み出されるために必要とされるので,たしかに知識の存在的な基質として重要だが,情報学は社会学や心理学に還元されるべきではない。それは,メンティファクトがそのもともとの生産者から自立した存在を持っているのとちょうど同じように,自立した分野として発展すべきである12)[p. 1237–1238]。

以上のような考察をしたうえで,Gnoliは,図書館情報学と知識の組織化の理論は,“実在の関係するレベルを考慮する,より広い複数主義的な枠組み”12)[p. 1238]に統合されるべきだと言う。そして,物的レベル,社会的レベル,文化的レベル(アーティファクトとメンティファクトを含む)のそれぞれのレベルは独立しているのではなく,それぞれが結びついて秩序を形成していると主張する。だからこそ,客観化された知識においては,方法論としての認知的アプローチと社会学的アプローチが相補って働くのである。酸素の概念は,個々の研究者の心の中(認知的アプローチの対象)で,そして,18世紀の化学の研究室という社会的文脈の中(社会学的アプローチの対象)で生み出され,現代の化学的知識の中に価値を持っている。

そして,図書館情報学と知識の組織化は,客観化された知識の発展に大きく関与している。“LISとKOは概念を新しく実りある構造へと創造的に再構築するという積極的な役割を持ちうる”12)[p. 1239]。それらはメンティファクトに体系的見解を与えることができる。そして,その見解を常に訂正していくことができるのである。

IV. Hjørlandの批判

Hjørlandは,Gnoliへの批判論文13)の中でGnoliの論文についてその内容をまとめたうえで批判的に論じている。つまり,存在論に関して,複数主義ではなく一元論が良いということを主張している。彼は1章で次のように言っている。“この論文は,心についてのもう一つの哲学的な見解,一元論が,もっと満足のいく仕方で同じ問題を解決することができることを明らかにする。加えて,GnoliがPopperの「世界3」を擁護するための論拠の中で使っている問題の解決に,ドキュメント(document)や著作(work)という概念が,一元論的な枠組みの内部で寄与することができると主張される”13)[p. 164]。ここではそれについて細かく見てみたい。

Hjørlandによれば,Gnoliは,実在のレベルについての見解を示したうえで,図書館情報学における,社会の役割を強調する社会学的アプローチと心の役割を強調する認知的アプローチの対立について言及し,それらのアプローチが対立するのではなく統合的な枠組みで統一される必要があると指摘している。そして,その理論的枠組みとしてGnoliが考えているのがHartmannやPopperの考えであり,重要視されているのがHartmannの客観化された精神やPopperの世界3だと言うのである。

そのうえで,Hjørlandは,“実在のレベルの理論に対して異議はない”13)[p. 165]と言う。そして,実際,心理学的レベルについての特定の理論は擁護されるべきだと考えているが,その理論は物理主義という一元論に基づいているのであり,その立場を主張することにより,Popperの形而上学では起こりうる理論的問題を解決できると言うのである。ここでは,心理学的レベルについてのどのような理論が擁護されるべきだと考えるかについては述べられていない。しかし,その点に関しては,Principia informatica: Foundational theory of information and principles of information services36)で述べられている。Hjørlandが認めているのは,ロシアの心理学者Aleksei Leontyevのレベルの理論37)である。Hjørlandは,“情報は,実際,存在する物理的な構成要素や過程の因果的な結果である”36)[p. 110]という前提のもと原始的な有機体からホモサピエンスまでの五つのレベルを分けているLeontyevの考えを,情報利用行動の生物学的レベルの発展の理論として捉える。五つのレベルとは,刺激反応を行う単細胞動物のような被刺激性のレベル,感覚によって与えられた異なる影響を全体に統合しない昆虫や鳥のような感覚的精神のレベル,全体を統合し特定の対象を知覚する知覚的精神のレベル,道具の使用を前提とする人間やチンパンジーのような知性のレベル,言語や社会的生産と関係する人間の認識のレベルである。このようなレベルの理論をHjørlandが認めているときの重要なポイントは,“主観的なもの,意識,概念,心理学的過程や状態は,すべて,より高度な動物がそれらの環境によりよく適応するために物的世界から発展させられた現象”36)[p. 111–112]と考えている点である。彼にとっては,何らかのものは誰かにとって情報的でありえるのであり,心理学的現象は環境に適応するために,言い換えるならば,有機体が直面する環境やチャレンジに対応するために生じてきたものである。それは,レベルについての進化論的な考えをとっているということを示している。しかし,そのようなレベルを認めても,彼は存在論としては一元論のままである。彼によれば,高いレベルのものも,環境に適応するために物的世界から発展してきたものなのであり,レベルの複数性は存在論としての複数主義を含むものではない。

では,存在論としての一元論でHjørlandが考えているのはどのようなものだろうか。Gnoliへの批判論文13)に戻りその点を確認したい。彼が考えているのは,心の哲学の意味での,一元論,複数主義(二元論だけでなくそれ以上の存在者を認めるものもある)である。そこでは,心的なものと物的なものの両方の存在を認めるのか,それとも物的なものの存在だけを認めるのかが問題になっている。そして,“複数主義は,問題を含むように思える,さらには,超自然的で迷信的であるようにさえ思える”13)[p. 166]とし,Darwinの進化論を根拠に,“「心」は「物」と異なる何らかのものとしてではなく,物のある進化的な産物として理解されるべきである”13)[p. 166]と主張する。彼によれば,“「世界3」(もしくは「客観化された精神」もしくは「アーティファクトとメンティファクト」)も,進化のより高い形式の部分として,つまり,物的世界の部分として一元論的に理解されなければならないのである”13)[p. 166]。アーティファクトは人間が何らかの自然から作った物的対象であるし,“メンティファクトは,アーティファクト,もしくは学ばれた行動や記憶において,特定の発現(manifestation)を持つ”13)[p. 166]。

そして,Hjørlandによれば,図書館情報学においては,アーティファクトに相当する概念としてドキュメントが古くから中心概念としてあるし,著作という概念もある。また,情報的対象を考えるならば,任意の対象が図書館情報学の中で検討される。アーティファクトやメンティファクトという概念が役に立つとしても,それに相当する概念が図書館情報学の中にはあるのである。

Gnoliが,世界3や客観化された精神が存在論的な地位を持つからこそ,それを作り出した人から離れて考察対象となりうるとして,理論物理学者における素粒子の存在を挙げていることに対しても,Hjørlandは批判的に分析している。ここでは,主観的知識と客観的知識の区別と,私的知識と公的知識の区別とが混同されているというのである。

科学者の心の中の理論はその科学者の心の部分であるから,世界2に属する。それが記録されればドキュメントになる。そのドキュメントが誰かに伝達されれば公的な理論になり,伝達されないなら私的な理論になる。たとえば,主要な雑誌に印刷され出版されるなら,他の科学者によって批判検討される対象になる。私的知識か公的知識かということが,科学理論が検討されるために重要な本質なのである。そして,その枠組みで考えた方が科学理論の発展についてよりよい記述を与えることができる。GnoliやPopperの考えでは,つまり,主観的知識と客観的知識という考え方では,出版された知識も主観的になってしまう。また,Thomas Kuhnのパラダイム論38)を考えるならば,現時点で認められている知識であるということも知識の客観性を保証しなくなってしまう。そう,Hjørlandは考えるのである。彼は次のように言っている。“この記述は,研究者の主観的な世界と記録された知識の世界を,二つの異なる世界として理解するのではなく,その世界において歴史的に発達してきた過程,事物,記号の体系や意味の種類として理解する。学術システムのこれらの要素は,初めから,LISのための社会学的,領域分析的枠組みの部分だった”13, 39)[p. 167]。

Hjørlandによれば,一元論的な視点でも,発展的なものとして,物理的世界から,生物学的世界,文化的世界を理解することができるのであり,それは社会学的に分析できるのである。Gnoliが言うように,認知的アプローチが対象とする存在者,社会学的アプローチが対象とする存在者を分ける必要はない。

一元論的な視点で社会学的に分析することの利点として,Hjørlandが挙げているのが,インデキシングという作業である。彼は,認知的アプローチで人々の心的過程を研究することだけでは,インデキシングについての説明はできないと述べている。ある人が心的な過程によって形成するインデキシングの原則は,社会的に形成される原則なのである。Gnoliが意図しているように二つのアプローチが異なるレベルのものに対してあると考えるのではなく,同じものを理解するために二つの異なるやり方があると考えた方がよいというのが,Hjørlandの考えである。

そのことについて,もう少し詳しく見るためには,Indexing: Concepts and theory10)を見るのがよい。まず,Hjørlandがそこでインデックスとインデキシングをどのように定義しているか確認しておきたい。彼は,手動インデキシングにも自動インデキシングにも当てはまる定義として,次のように言っている。

インデックスは,ソースドキュメントからシンボルを引き出すことによって,もしくはソースドキュメントについてのシンボルを割り当てることによって,何らかのソースドキュメントにおける,もしくはソースドキュメントについての情報にアクセスを与える機能を持つ,したがって利用者に対してシンボルの既知の秩序(たとえば,AからZ)から情報についての未知の場所へのアクセスを与える機能を持つ,一種のターゲットドキュメントである。…インデックスとインデキシングは相互に定義される。インデキシングはインデックスを生み出す過程であり,インデックスはインデキシングの過程の産物である10)[1. Definition of the terms index and indexing]。

そして,インデックスを分類する総合的な規準として三つのもの,“(1)ソースドキュメントの種類や属性に関係する規準,(2)インデックス自体(ターゲットドキュメント)の属性に関する規準,(3)インデクサー,インデキシングの過程,インデキシングがそこにおいて生じる文脈,そして,使われる道具に関する規準”10)[2. Kinds of indexes]を挙げている。たとえば,インデックスを与えられるドキュメントの種類(たとえば,本か雑誌か,歴史的分野か医学的分野か)による分類は,(1)に関係する。使われているサインによる分類(たとえば,本ではしばしば語がつかわれ,絵では色や形などが使われる)は,(2)に関係する。人間によるインデックスなのかコンピュータによるインデックスなのかという基準は,(3)に関係する。さらに,彼は,インデキシングが理論に基づくものではないという主張に反対し,それは暗にではあれ理論的なものであると言う。そして,インデキシングに影響を与えている基本的な四つの認識論として,合理主義,経験主義,歴史主義,プラグマティズムを挙げる。彼によれば,主題がカテゴリーのセットから合理的に構成され,ドキュメントの主題が決定され,ドキュメントにインデックスが与えられ,それを探すための論理的規則があると考えるようなインデキシングについての考え方や,人間の心をコンピュータと類似して理解しインデクサーの心的活動を導く規則を明らかにしようとする認知的見解は,合理主義の影響を受けている。統計学的手続きを重視し,対象はその性質を中立的な規準で分類すると考えるならば,それは経験主義の影響を受けている。そして,これら二つは個人主義的な認識論をもとにしたものである。また,ドキュメントが知覚され解釈されインデックスを与えられるやり方も,インデックスの利用者も,それがどのような社会でなされるか,どんな歴史的背景や物事の考え方の枠組み(パラダイム)を持っているかによって異なると考えるならば,それは歴史主義である。インデキシングは人間の行為であり,その行為が人間の目的に役にたつかどうかでインデックスの正当化を図ろうとするのはプラグマティズムの影響を受けている。歴史主義を認めたうえで,プラグマティズムの場合は帰結や目的を重視するのである。そして,後者二つは社会に重きを置いているものである。そして,彼は,それを社会認識論的なアプローチであると考えるのである。背景としてある理論が異なるならば,インデクサーの主観性についての意見も異なる。合理主義者ならば,インデクサーが知っている唯一の理想的な立場を要求する。しかし,歴史主義者やプラグマティストであるならば,その主観性を認める。そして,たとえば,そう考える人たちは,インデクサーを区別し(たとえば,図書館情報学のトレーニングを受けた人,主題についての知識が豊富な人等),インデクサーの主観性がインデキシングの過程の処理にどう関係しているかを明らかにしようとする。また,その考えによれば,人間の想定がアルゴリズムのデザインに影響を与えうるので,アルゴリズム的なインデキシングにも何らかのバイアスがかかっている。インデキシングの言語を考えるときも同じことが言える。合理主義者ならば,理想言語を望むだろう。しかし,社会認識論的に考えるならば,言語が主観的だということを認めたうえで,その状況を説明しようとするだろう。

以上のように,インデックスにもインデクサーにも,インデキシングの過程にも,下敷きになっている理論があることを認めたうえで,それらに対して文化,社会,パラダイム等が影響を与えているという見解をもってそれらについて考察するならばよりよい成果が得られるというのが,Hjørlandの考えなのである。

以上のように見てくるならば,HjørlandのGnoliへの批判の論点は,五つに整理されると考えられる。一つ目は,心的なものと物理的なものがあると考える,二元論やそれ以上の存在者を認める複数主義の存在論は,超自然的で迷信的であるように思えることである。二つ目は,一元論的に考えてもレベルの理論は認めることができるということである。三つ目は,アーティファクトやメンティファクトという新しい概念を導入しなくとも,ドキュメント等,図書館情報学の中で使われてきた概念を使えば,現象を分析できるということである。四つ目は,科学が批判されながら進歩するためには複数主義的に考えた方がよいというGnoliの考えは,私的知識と主観的知識を,また公的知識と客観的知識を混同しているから起こることであり,私的知識と公的知識の区別に着目して,たとえば,学術システムを社会学的,領域分析的に研究するなら,知識や理論の発展をより自然に説明できるということである。五つ目は,認知的見解と社会学的見解は,実在の異なるレベルに対応するものではなく,同じ実在に対する異なる見方であるので,認知的見解と社会学的見解が対立し,新しい存在者のためにそれを統合した新たな見解が必要であるという構造にはならないということである。

V. 問題点の整理

ここまで,Gnoliの考えとHjørlandの考えを見てきた。具体的な考察に入る前に,両者の考えの対立点を明らかにし,本論で注目したい相違点を明確化したい。

両者の存在論的な対立点は,Gnoliが存在論的に複数主義を主張しているのに対し,Hjørlandが一元論を主張していることだった。Gnoliは,物的存在者だけではなく,客観化された精神や世界3,メンティファクトという語であらわされるような抽象的な存在者も認めるという意味で複数主義者だった。それに対して,Hjørlandは,物的な存在者だけを考える一元論者であった。物的世界,進化のある段階から心を伴う生物学的世界,同様に心を伴う社会的文化的世界という世界の見方を認めながらも,“生物学的世界,心の世界,そして社会文化的世界は,新たに出現した諸性質を伴う新しいレベルの進化として一元論的な視点から理解されることができる”13)[p. 168]と述べている。

そして,Gnoliが複数主義を主張している根拠としては,以下のもの40)が挙げられていた。

  1. (1)実際にレベルの理論を使った分類がある
  2. (2)複数主義的な存在論をとるならば,方法論的な還元主義(それが認知的アプローチであれ,社会的アプローチであれ)をとらなくてすむ
  3. (3)メンティファクト等を考えることで学問の進歩を説明できる
  4. (4)メンティファクトを認めることによってしか説明できない現象がある
  5. (5)メンティファクトが下のレベルのものに対して因果的な力を持ちうる

それに対して,Hjørlandは,Gnoliの考えが適切ではない理由として,以下のこと41)を挙げていた。

  1. (1*)進化論的なレベルの理論を認めることは複数主義にはならない
  2. (2*)現象を分析するには,領域分析的,社会認識論的なアプローチが必要
  3. (3*)学問の進歩はメンティファクトを考えなくとも説明できる
  4. (4*)メンティファクトという新しい概念を導入しなくともドキュメントや著作等,図書館情報学の中で使われてきた概念を使えば現象を分析できる
  5. (5*)心についての二元論や複数主義を認めることは非科学的である

上記は,便宜上の整理であり,たとえば,(3)から(4)をひとまとめにすることもできるし,(3*)を(4*)に含めることもできるかもしれない。いずれにせよ,暫定的に上記のように根拠と批判を整理したうえで,両者の対立点に対して何らかの評価を下すためにはどこに注目すべきかを検討したい。

(1)と(1*)は,同じ事実に対する評価の違いを示している。進化論的なレベルの理論があることをHjørlandも認めるとしたら,実際にレベルの理論を使った分類があるということはどちらの説を支持するものでもない。それゆえ,本論では,この点が両者の対立点に対して何らかの評価を下すための重要なポイントとは考えない。

(2)と(2*)の対立は,また,方法論的な対立,認識論的な対立である。Gnoliは,心的レベルでは認知的アプローチを,社会的現象については社会的アプローチを使うことができ,客観化された精神,世界3,メンティファクトのレベルでは,それらのアプローチが相補うと言っていた。それに対して,Hjørlandは,インデックスの分析でも見たように,社会的なアプローチを重要視していた。そして,クーンのパラダイム論等に訴えながら,すべての現象には社会的側面が含まれていると主張していた。そのようなHjørlandの考えをGnoliが言うように方法論的な還元主義とするかどうかは議論のあるところではあるが,Hjørlandの方法論が彼の存在論と関係があることには間違いはない。けれども,方法論と存在論とのHjørlandのような対応関係が,唯一の対応関係であるとも現時点では言えない。そして,本論は,存在論の対立について扱うことを目的としている。それゆえ,本論では,この認識論的な対立については論じない42)

(3)から(5)は,メンティファクトという存在者を考えることによる利点を示している。一方,(3*)と(4*)は,メンティファクトという存在者を考えなくとも同じことが説明できると主張している。(5*)は,Hjørlandの心身二元論に対する批判である。それゆえ,存在論的な対立として問題となるのは,(3)から(5),(3*)から(5*)であると考えられる。

存在論的な対立を検討するための一つ目の問題は,(5*)に関するものである。Hjørlandは物的一元論の立場をとり心的二元論を非科学的といって批判しているが,心の哲学において物的一元論をとることがそれほど確固たる地位を持っているかどうかが検討されなければならない。

二つ目と三つ目の問題は,(3)から(5)と(3*)から(4*)の対応関係の中に見られる。そこに見られる第一の問題は,Hjørlandが主張しているドキュメントや著作がどのような存在者かという問題である。もしそれらがGnoliの言うメンティファクトと同じ存在者なら,それはGnoliに対する批判にはならない。もし異なる存在者だとしたら,それがどのような存在者か明らかにされなければならない。それが,二つ目の問題である。

(3)から(5)と(3*)から(4*)の対応関係の中に見られる第二の問題は,ドキュメントや著作がメンティファクトとは異なる存在者である場合に生じるものである。つまり,メンティファクトという存在者とドキュメントや著作という存在者の対立に関してどのような問題があり,Gnoliが言っている利点やHjørlandの代替可能性の主張がその対立に対して決着をつけることができるのかが検討されなければならない。それが,三つ目の問題である。

以上のように,GnoliとHjørlandの存在論的対立について考えるために検討すべき問題が明らかになった。それゆえ,次に,上記三つの問題について検討していきたい。

VI. 考察

A. 心的二元論の非科学性

まず,最初に,「Hjørlandは物的一元論の立場をとり心的二元論を非科学的といって批判しているが,心の哲学において物的一元論をとることがそれほど確固たる地位を持っているかどうか」ということについて検討したい。

心がどのような存在者かという問題に関しては,哲学では古くから論じられてきた。たとえば,「思惟するものとしての心」と「延長するものとしての身体」というデカルトの考えはデカルト的二元論と言われ,それをどう考えるかが問題43)になってきた。しかし,現代,脳神経科学の進歩やAIの進歩によりさまざまなことが明らかになったことにより,心とは何かという問題は現代的な問題として哲学において多くの人々によって論じられている44–47)

そこではもちろん,現代の脳神経科学の進歩が否定されているわけではない。意識経験には脳状態や脳の出来事が付随しているということに関する証拠はたくさんある48)。けれども,それを認めたうえでも,物的一元論を簡単に主張することはできないのではないかと議論されているのである。

代表的なものとして,意識のハード・プロブレムと言われる問題がある。それは,David J. Chalmersによって提起された問題49)である。彼は,現象的意味での意識と心理学的意味での意識を区別し,意識経験と脳状態の相関関係がどのようであるかを問う問題は後者に関わり,解決が容易であるという意味でイージー・プロブレムであるのに対して,なぜそのように意識経験と脳状態が相関しているのかを明らかにする問題はハード・プロブレムだと言い,脳状態に還元されない現象的意識がありうるのではないかということを哲学的ゾンビの思考実験で述べている。哲学的ゾンビとは,物理的には自分と全く同じであるが現象的意識を欠いている何ものかである。そして,Chalmersは,そのような哲学的ゾンビが想定可能だとすることによって,物的一元論で意識の問題を解決することの難しさを指摘している。

脳神経科学的説明には還元されない現象的意識があるのではないかという問題に関しては,Thomas Nagelの「コウモリであるとはどのようなことか」50)やFrank Jacksonのメアリーの部屋の思考実験51)でも述べられている。前者によれば,神経科学的にコウモリが知覚しているときに何が起こっているかがわかったとしても,コウモリが経験していることをわれわれは知りえない。後者によれば,生まれてからずっと白黒の部屋にいて,そこで神経科学の十分な知識を手に入れたメアリーでさえ,白黒の部屋にいるかぎり色の現象的意識を経験できないというのである。また,Joseph Levineは,説明のギャップ52)ということを言っている。神経科学的な説明と現象的意識の間にはギャップがあると言うのである。

Hjørlandが主張している進化論的な考えは,物理主義的な考えである。物理的なある構造が意識を創発するという考え53, 54)もあるが,上記で見たように,それは意識を巡る問題に対する一つの立場であり,それが正しいと断定されているわけではない。

以上のように,意識経験について脳神経科学の成果を否定しないとしても,意識についての問題が解決されたわけではないのである。もちろん,心と現象的意識は同じではないが,現象的意識は心に含まれるものであり,もし脳神経科学を認めたうえで,現象的意識の存在が問題になるとしたら,心についての二元論や複数主義を非科学的という理由で,簡単に捨て去ることはできないのである55–58)

B. ドキュメント

次の問題は,Hjørlandが主張しているドキュメントや著作がどのような存在者かということである。彼は,先の整理の(3*)で示したように,世界3や客観化された精神を想定しなくとも,学問の進歩は説明できると言っている。言い換えるならば,メンティファクトという存在者を仮定しなくとも,学問の進歩は説明できるということである。

Hjørlandによれば,学問の進歩を説明するのは,ドキュメントである。彼は,Michael Bucklandからの引用59)[p. 47]を示して,ドキュメントを“保存された,もしくは記録された,具体的,もしくは象徴的なしるし(indication)”13)[p. 166]と捉えている。彼によれば,情報を担っているものはドキュメントである。

科学者の心の中の理論が記録されドキュメントになる。そのドキュメントが誰かに伝達されればそれは公的な理論になる。他の科学者によって批判検討される対象はドキュメントであるとHjørlandは言うのである。

ここでHjørlandが考えているドキュメントは,物的存在者であると考えられる。そして,ドキュメントが物的存在者であるということは,「証拠として扱うことが意図されている」,「体系の中で処理されなければならない」,「ドキュメントだとみなされている」という要件とともに,BucklandのWhat is a “document”?60)の中でBrietのドキュメントについての考えのまとめとして示されているドキュメントの要件の一つである61)[p. 806]。

しかし,Hjørlandは,ドキュメントがメンティファクトの代わりになると言っていた。だとしたら,彼の考えるメンティファクトは物的存在者なのだろうか。彼はそうは言っていない。彼はアーティファクトが物的存在者であるとした後で,“一方,メンティファクトは,諸理論やバッハのフーガのような非物的な創造物(non-material creations)である。メンティファクトは,アーティファクト,もしくは学ばれた行動や記憶において,特定の発現(specific manifestations)を持つ”13)[p. 166]と言っていた。では,それは,物的存在者としてのドキュメントが表している内容としての存在者なのだろうか。そうではありえない。もしそうだとしたら,それはGnoliのメンティファクトと同じ抽象的存在者になってしまう。メンティファクトは,あくまで,物的存在者であるドキュメントにおける発現としてあるのであり,物的存在者から離れて抽象的に存在するものではない。

Hjørlandが学問の進歩を問題とするとき,批判の対象とされているメンティファクトは抽象的存在者としてのメンティファクトである。しかし,Hjørlandによれば,メンティファクトは,物的存在者における発現として,物的一元論的にとらえることもできる。そうすることによって,メンティファクトという抽象的存在者を仮定することなく,メンティファクトという概念を使うことができる。けれども,彼によれば,わざわざメンティファクトという概念を導入する必要もない。もともとあるドキュメントとそこにおける発現という考えを使えば事足りる。

そこで,Hjørlandが使っている著作という概念も問題になる。彼は著作について述べているところで目録の理論に言及しているが,彼の述べている著作は,もし彼の考えが一貫しているなら,抽象的存在者であってはならない。だとしたら,彼が実体関連分析を積極的に評価していることと,彼が抽象的存在者を認めることとは区別して考えられなければならない。IFLAによる書誌レコードの機能要件(FRBR)では,“著作は,一つ,もしくはそれ以上の表現形を通して実現されうる(a work may be realized through one or more than one expression)。…表現形は,一つ,もしくはそれ以上の体現形において具体化されうる(An expression may be embodied in one or more than one manifestation; )。…そして,体現形は,一つ,もしくはそれ以上の個別資料によって例示されうる(A manifestation, in turn, may be exemplified by one or more than one item;)”62)[p. 13–14]となっている。そして,著作や表現形は,“知的,もしくは芸術的内容(intellectual or artistic content)”を反映しており,体現形と個別資料は,“物理的形態(physical form)”を反映しているとしており,FRBRでは,著作や表現形として抽象的存在者を認めうると考えられる。しかし,おそらく,Hjørlandはそうは考えていない。彼にとっては,たとえば,バッハの無伴奏チェロ組曲no. 6という著作は,ヨーヨーマの特定の時のバッハの無伴奏チェロ組曲no. 6の演奏という表現形をあるメーカーが録音したCDという体現形を持って初めて意味を成すものである。それらのCDの中の一つの例示である一枚のCD(先の体現形の例示であるならどの任意の一枚でもよい)において,バッハの無伴奏チェロ組曲no.6は発現を持っている。著作は,物的存在者における発現として,物的一元論的に捉えることができるのである。

目録の理論では,manifestationは体現形と訳される。したがって目録の理論について述べているところでは,本論はmanifestationを「体現形」と訳している。先に見たように,Hjørlandは,進化論的立場をとり,心的なものも物的世界から発展してきたものだと考えていた。それゆえ,メンティファクトがアーティファクトにおいて,manifestationを持つと彼が言っているときも,「進化」というニュアンスが含まれていると判断し,メンティファクトについて述べているところでは,本論はmanifestationを「発現」と訳している。しかし,同じ語を使っていることから,目録の理論を考えているときにも,Hjørlandは,manifestationという語に,進化論的な特徴を見ていると考えられる。そのように考えるならば,先のFRBRからの引用から,表現形がメンティファクト,体現形がドキュメントに対応していると考えていると推察される。そして,FRBRに見られた「著作・表現形」と「体現形・個別資料」という二分法は,Hjørlandにも適用され,彼においても「著作・表現形」がメンティファクト,「体現形・個別資料」がドキュメントに対応していると考えられる。ただし,前者は抽象的存在者ではなく,物的存在者における発現である。

以上のように考えるならば,Hjørlandがメンティファクトの代替物として主張しているのは抽象的存在者ではなく物的存在者としてのドキュメントにおける発現であり,だからこそ,ドキュメントという概念があればメンティファクトという概念をなしで済ますことができると言っているのである。だとしたら,ここに見られる存在論的対立は,抽象的存在者としてのメンティファクトと物的存在者としてのドキュメントの対立になる。Gnoliは抽象的存在者としてのメンティファクトを認めようと言っているのであり,Hjørlandは抽象的存在者を認めなくとも図書館情報学研究は物的存在者としてのドキュメントを考えるならば事足りると主張しているのである。

以上のように,GnoliとHjørlandの存在論的対立が,抽象的存在者としてのメンティファクトと物的存在者としてのドキュメントの対立であることが明らかになった。だとしたら,前節で見たような,心の哲学での物的一元論擁護だけが問題になるのではない。脳神経科学の成果を受けて心という存在者をどのようなものと考えるかということは,抽象的存在者一般を認めるかどうかという問題とは,完全には重なるものではない。したがって次の問題は,ドキュメントの考察で明らかになった抽象的存在者と物的存在者との対立に関してどのような問題があり,Gnoliが言っている利点やHjørlandの代替可能性の主張がその対立に対して決着をつけることができるのかを,哲学的な視点から検討することである。

C. 抽象的存在者と物的存在者

前節で述べたように,抽象的存在者としてのメンティファクトと物的存在者としてのドキュメントの対立になるとしたら,それに対してはどのような分析ができるだろうか。問題は,Hjørlandの言うように,物的存在者としてのドキュメントや著作という考えで,Gnoliが考えているような抽象的存在者としてのメンティファクトを想定する場合と同じことがなされうるかということ,Gnoliが考えている抽象的存在者としてのメンティファクトを考えることの利点は一元論者を倒すほど強いものかどうかということである。

まず,それに関して,一つ目の問題は(3)と(3*)の対立である。それは,学問の進歩を説明するためにどちらがよりふさわしいかということになる。Gnoliによれば,抽象的存在者としてのメンティファクトの存在が学問の進歩を説明するのだった。それに対して,前節で見たように,Hjørlandによれば,物的存在者としてのドキュメントが他の人と共有され考察の対象となることによって学問の進歩を説明できるのだった。しかし,これに関しては抽象的存在者と物的存在者のどちらが有利ということはないと私は考える。なぜなら,どちらの説明も説得力があり,どちらかをとる積極的な理由はないように思われるからである。

だとしたら,(4)や(5)と(4*)の説明に関してはどうだろうか。このことを考えるためには,哲学における虚構的存在者に関する議論が役に立つ。Gnoliが(4)で主張しているピノキオのような対象は,虚構的対象と言われる。虚構的対象を存在者として認める立場が虚構的対象に対する実在論であり,虚構的対象を存在者として認めない立場が反実在論である。

虚構的対象とはどのようなものなのかという議論は,現代哲学でも盛んにおこなわれている63, 64)。虚構的対象(キャラクター)の名前があるからといって,その名前が虚構的存在者を指示しているのではないと考えた代表的な哲学者がBertrand Russell65)である。彼は,「現代のフランスの国王は禿である」は,「現在,フランスの国王という性質を持つものが一つだけ存在し,かつ,その同じものが,禿という性質を持つ」というように言い換えができるのであり,「現代のフランスの国王」という語があり,それを使って何らかの話ができるからといって,虚構的対象が存在すると考える必要はないと論じている。それに対して,van Inwagen66)は,虚構的対象は抽象的実体として存在していると考えている。他にも虚構的対象をどのように考えるかについては,たとえば,Kendal Waltonのごっこ遊びの理論67)や,Russellによって否定されたマイノング主義に由来するとされる新マイノング主義68)等,多くの議論がある。それらのことを考慮するなら,Gnoliの(4)の主張は,もう少し細かく検討されるべきであるということがわかる。

(5)では,抽象的存在者は,何らかの理論の内容であり,ピノキオのような虚構的対象ではないかもしれない。しかし,どのレベルの存在者を認めるかということに関しては,先の虚構的対象についての議論と同様,論じられるべきことは多いと考えられる。

ただし,(4)と(5)で述べられていることの判断基準は注目に値する。Gnoliは現象を説明するのに役に立つということを,メンティファクトという存在者を認めることの理由として挙げている。そして,その判断基準は,(4*)におけるHjørlandとも共有されている。Gnoliの挙げているメンティファクトの利点がどれほど利点であるか,哲学的存在論における論点を踏まえたうえで検討していくことが重要であろう。

実際,(4*)において,Hjørlandは,インデキシングの例を挙げて,一元論的な視点で社会学的に分析することの利点を論じている。存在をいくつかに分けそれぞれに方法論を対応させるよりは,すべてに社会的な要素が含まれていると考えてインデキシングを考えていくことが図書館情報学研究に有利であるので,一元論であると言っているのである。ただし,ここでの問題点は,インデキシングに関して,インデックスを与えるべき対象を抽象的存在者として考え,それを社会学的に検討することに対して,おそらくGnoliは反対しないだろうということである。また,存在論と方法論の対応関係が,Hjørlandの考えるような対応関係かどうかが明らかでない点も,存在論としてどちらが良いかを具体的な事例で考えるための例としては不適切に思える。

以上のように考えるならば,三つ目の問題点に関しては,次のように言えるだろう。つまり,GnoliとHjørlandの対立点は明らかだが,両者の言い分だけでは,抽象的存在者が必要なのか,物的存在者だけでよいのかという問題に対しては決定的な答えを出すことができない。たとえば,虚構的対象が何らかの異なる媒体で使われるということ一つをとっても,実在論,反実在論それぞれの立場から多くのことが論じられると考えられるからである。しかし,両者が提示している対立を解決するための視点は重要である。つまり,抽象的存在者としてのメンティファクトを認めることと物的存在者のみを認めることの対立を,現象を説明する際の有用性で考えようとする視点は重要である。そして,Hjørlandのインデックスの例の場合は,認識論的な問題に重きが置かれていたように思われ,存在論としてどちらが有利かの判断には使えないように思えたが,そのことは,具体的な図書館情報学研究の中でどちらの存在論が有利かを考えることが不適切だということを示すものではない。

VII. おわりに

本論では,図書館情報学において哲学を考えることが目指しているものは,存在論的,もしくは認識論的にどのような立場をとることが図書館情報学研究をより実りあるものにできるかを示すことなので,存在論的・認識論的アプローチの違いが図書館情報学研究にどのような違いをもたらすのかを明らかにすることが重要であるという認識を前提とした。そしてその認識のもと,存在論に着目し,存在論について対立している近年の具体的な論文を分析することで,存在論の違いが図書館情報学研究においてどのように現れるのかを明らかにし,対立する二つの立場に対してどちらかの優位性を示すための注目点を指摘することを目指していた。

そのために,まず,認識論と存在論についての一般的な区別を確認した。それから,GnoliのMentefacts論文12)における複数主義的な存在論がどのようなものか,さらには,HjørlandのGnoliへの批判論文13)における一元論的な存在論がどのようなものかを概観したうえで,議論の係争点(心的二元論の非科学性,ドキュメントという存在者,抽象的存在者の存在)を整理し,検討した。

その結果,心についての二元論や複数主義を非科学的という理由で簡単に捨て去ることはできないということ,存在論を検討する際に心の哲学での物的一元論を擁護することだけが問題ではないこと,抽象的存在者が必要かどうかに関しては両者の当該の議論だけでは決定的な答えを出すことができないということが明らかになった。さらには,GnoliもHjørlandも,抽象的存在者としてのメンティファクトを認めることと物的存在者のみを認めることの対立を現象説明の際の有用性という視点で検討していたこと,特にHjørlandの場合は,図書館情報学研究における有用性に焦点が当てられていたことも明らかになった。そして,そのことは,存在論を巡る対立に関して,図書館情報学研究における問題を解決できるかどうか,図書館情報学研究が問題としている現象をうまく説明することができるかどうかという,図書館情報学研究における有用性という視点に注目していくことの可能性を示していた。

しかし,存在論的な立場の有用性の違いが,図書館情報学研究のどのような領域で生じるのか,そして,生じている場面においてどのような理由でどのような存在論が有用なのかについては論じていない。それらは,今後の課題である。

謝辞Acknowledgments

筑波大学名誉教授の緑川信之先生には,さまざまな相談にのっていただき,知識の組織化についての文献を教えていただくとともに,貴重なご助言をたくさんいただきました。深くお礼申し上げます。

引用文献References

1) 緑川信之.“図書館・情報学への招待”.図書館・情報学入門.三田図書館・情報学会編.勁草書房,2005, p. 185–218.

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6) Special edition: Library and information science and the philosophy of science. Journal of Documentation. 2005, vol. 61, no. 1, p. 5–163.

7) 横山幹子.哲学と図書館情報学の関係:図書館情報学における哲学に関する英語論文を基に.Library and Information Science. 2014, no. 71, p. 75–97.

8) たとえば,Hjørlandは,認識論的実在論や観念論的な経験主義から区別されたものとしての形而上学的実在論を重要視し客観性を目指して実在論の哲学に基づいて経験的研究がなされるべきだと主張していた。(Hjørland, B. Arguments for philosophical realism in library and information science. Library Trends. 2004, vol. 52, no. 3, p. 488–506.)

9) Hjørland, B. Empiricism, rationalism and positivism in library and information science. The Journal of Documentation. 2005, vol. 61, no. 1, p. 130–155.

10) Hjørland, B. “Indexing: Concepts and theory”. ISKO Encyclopedia of Knowledge Organization. Hjørland, B., ed. ISKO, 2018, www.isko.org/cyclo/indexing, (accessed 2019-10-25).

11) Shera, J. H. Sociological Foundations of Librarianship. Asian Publishing House, 1970, 195p.(日本語訳:図書館の社会学的基盤.藤野幸雄訳.日本図書館協会,1978, 185p.)

12) Gnoli, C. Mentefacts as a missing level in theory of information science. The Journal of Documentation. 2018, vol. 74, no. 6, p. 1226–1242.

13) Hjørland, B. The foundation of information science: One world or three? A discussion of Gnoli(2018). The Journal of Documentation. 2019, vol. 75, no. 1, p. 164–171.

14) “存在論”.岩波哲学・思想事典.廣松渉ほか編.岩波書店,1998. p. 998.

15) “認識論”.岩波哲学・思想事典.廣松渉ほか編.岩波書店,1998. p. 1242.

16) Gnoliの論文の題目にはthe theory of information scienceという語はあるが,library and information scienceという語は含まれていない。そして,彼の論文中では,library and information scienceを表すLISという語とthe theory of information scienceが混在している。この点を理解するためには,Introduction to Information Scienceの邦訳3)の「日本語版への序文」での田村の説明が役に立つ。彼は,“図書館情報学はもともと欧米由来の研究・実践領域で,図書館の管理運営法に起源を持つものの,対象領域はもっと広い。情報を中心に置く図書館「情報」学のはじまりは19世紀の末で,「ドキュメンテーション」と呼ばれる,組織を超えた文献情報活用の可能性を探る分野が発展し,化学や医学といった専門領域での技術開発や制度整備が行われた。特に,第二次世界大戦後は,コンピュータを中心とする技術の急速な発展と科学技術政策の推進などにより,科学技術分野の文献情報流通をデジタル情報にまで広げ,多様な情報の活用法とそれに伴う諸問題を,より広い社会的文脈の中でとらえ直そうとする研究・実践がさかんになった。そうして,文献情報を扱うという点で図書館学と親和性の高い分野,本書で言うところの情報学が誕生した”[p. i]と述べ,このドキュメンテーション由来の情報学は,図書館情報学と本質的に同じ課題を扱うとし,邦題を『図書館情報学概論』としている。そして,“本書でも「情報学」と「図書館情報学」の語が混在しているが,両者は実質的に同じことであると思っていただいてよい”[p. ii]と述べている.

17) Gnoliの論文の中では,「library and information science」は,初出以外では「LIS」と省略されている。本論では,Gnoliの引用の中では,LISをそのまま使用し,他のところでは,「図書館情報学」という語を使用している.

18) LISの場合と同様に,引用ではKOのまま表記し,引用以外の場所では,「知識の組織化」という語を使用する.

19) Hjørland, B. Epistemology and the socio-cognitive perspective in information science. Journal of the American Society for Information Science and Technology. 2002, vol. 53, no. 4, p. 257–270.

20) Hjørland, B. “Library and information science”. ISKO Encyclopedia of Knowledge O rganization. Hjørland, B., ed. ISKO, 2018, www.isko.org/cyclo/lis, (accessed 2019-10-25).

21) Poli, R. The basic problem of the theory of levels of reality. Axiomathes. 2001, vol. 12, no. 3/4, p. 261–283.

22) Hartman, N. Neue Wege der Ontologie. Kohlhammer, 1949, 115p.(日本語訳:存在論の新しい道.熊谷正憲訳.協同出版株式会社,1976, 234p.)

23) Hartman, N. Das Problem des Geistigen Seins: Untersuchungen zur Grundlegung der Geschichtsphilosophie und der Geisteswissenschaften. Walter de Gruyter & Co., 1933, 482p.(日本語抄訳:歴史哲学基礎論:精神的存在の問題.高橋敬視訳.理想社,1943, 250p.)

24) Popper, K. R. Objective Knowledge: An Evolutionary Approach. Rev. ed. Clarendon Press, 1979, 395p.(初版日本語訳:Popper, K. R. 客観的知識:進化論的アプローチ.森博訳.木鐸社,1974, 411p.)

25) Popper, K. R. Unended Quest: An Intellectual Autobiography. Rev. ed. Routledge, 1992, 276p.(初版日本語訳:Popper, K. R. 果てしなき探求:知的自伝.森博訳.岩波書店,1978, 340p.)

26) Popper, K. R.; Eccles, J. C. The Self and its Brain: An Argument for Interactionism. Routledge & Kegan Paul, 1983, 597p.(日本語訳:自我と脳.大村裕,西脇与作訳.思索社,1986, 2冊.).

27) Rudd, D. Do we really need World III?: Information science with or without Popper. Journal of Information Science. 1983, vol. 7, no. 3, p. 99–105. 等.

28) Brookes, B. C. The foundation of information science Part 1: Philosophical aspects. Journal of Information Science. 1980, vol. 2, p. 125–133.(日本語訳:情報学の基礎 その1: 哲学的側面.岡沢和世,長田秀一,緑川信之訳.ドクメンテーション研究.1982, vol. 32, no. 1, p. 12–23.)

29) Kyle, B. R. F. “Lessons learned from experience in drafting the Kyle Classification”. Classification and Information Control: Papers Representing the Work of the Classification Research Group during 1960–1968. Classification Research Group. Library Association, 1969, p. 11–16.

30) Kyle, B. R. F. Review of Atherton. The Journal of Documentation. 1965, vol. 21, no. 4, p. 301–303.

31) Eubank, E. E. The Concepts of Sociology: A Treatise Presenting a Suggested Organization of Sociological Theory in Terms of its Major Concepts. D. C. Health and Company, 1931, 570p.

32) Huxley, J. S. “Guest editorial: Evolution, cultural and biological”. Yearbooks of Anthropology. University of Chicago Press, 1955, p. 2–25.

33) Foskett, D. J. The Classification Research Group 1952–1962. Libri. 1962, vol. 12, no. 2, p. 127–138.

34) Spiteri, L. F. The Classification Research Group and the theory of integrative levels. The Katharine Sharp Review. Summer 1995, https://www.ideals.illinois.edu/bitstream/handle/2142/78239/spiteri_classification.pdf?sequence=2, (accessed 2019-11-5).

35) Gnoli, C. Classifying phenomena Part 2: Types and levels. Knowledge Organization. 2017, vol. 44, no. 1, p. 37–54.

36) Hjørland, B. “Principia informatica: Foundational theory of information and principles of information services”. Emerging Frameworks and Methods: CoLIS 4: Proceedings of the Fourth International Conference on Conceptions of Library and Information Science. Bruce, H.; Fidel, R.; Ingwersen, P.; Vakkaril, P., eds. Libraries Unlimited, 2002, p. 109–121.

37) Leontyev, A. N. Problems of the Development of the Mind. Progress Publishers, 1981, 455p.

38) Kuhn, T. S. The Structure of Scientific Revolutions. University of Chicago Press, 1962, 172p.(日本語訳:科学革命の構造.中山茂訳.みすず書房,1971, 277p. があるが,邦訳では,初版とは異なるKuhnの改訂がなされたものが翻訳されている.)

39) 領域分析とは,Bawdenらの『図書館情報学概論』では,図書館情報学において,以下のような特徴を持つものとされている.“領域分析は,ある主題分野や利用者群を対象としたコミュニケーション連鎖について調査研究を行う上での,また情報サービスを実践する上での理論的な枠組みとなる” 3)[p. 114].“社会集団がもつ知識の性質を知り,それに基づき情報提供の方針を決めるという意味で,領域分析は,社会認知志向のアプローチである” 3)[p. 114].“領域分析は,主題情報専門家の業務を支える理論的基盤である” 3)[p. 114].“領域分析は,情報学における研究と実践の架け橋となる”3)[p. 114].(この引用は邦訳からのものである.)

40) ここでの番号付けは,述べられている順序ではなく,後の分析がしやすいように筆者がつけた.

41) ここでの番号付けも,述べられている順序ではなく,分析のためにGnoliのものと対応する形で筆者がつけた.

42) もちろん,方法論と存在論の対応関係についての考察は重要であり,別の機会に論じたい.

43) たとえば,Descartes, R. 方法序説.谷川多佳子訳.岩波書店,1997, 137p. デカルトはデカルト的二元論かという問題もあるがここではその点について論じるつもりはない.

44) 本邦でも,信原幸弘.意識の哲学:クオリア序説.岩波書店,2002, 230p.

45) 金杉武司.心の哲学入門.勁草書房,2007, 220p.

46) 太田雅子.心のありか:心身問題の哲学入門.勁草書房,2010, 210p.

47) 鈴木貴之.ぼくらが原子の集まりなら,なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう:意識のハード・プロブレムに挑む.勁草書房,2015, 279p. 等.

48) Zeki, S. たとえば,Zeki, S. A century of cerebral achromatopsia. Brain. 1990, vol. 113, no. 6, p. 1721–1777.

49) Chalmers, D. J. The Conscious Mind: In Search of a Fundamental Theory. Oxford University Press 1996, 414p.(日本語訳:意識する心:脳と精神の根本理論を求めて.林一訳.白揚社,2001, 509p.)

50) Nagel, T. What is it like to be a bat? Philosophical Review. 1974, vol. 83, p. 435–450.(日本語訳:“コウモリであるとはどのようなことか”.コウモリであるとはどのようなことか.永井均訳.勁草書房,1989, p. 258–282.)

51) Jackson, F. Epiphenomenal qualia. The Philosophical Quarterly. 1982, vol. 32, no. 127, p. 127–136.

52) Levine, J. Materialism and qualia: The explanatory gap. Pacific Philosophical Quarterly. 1983, vol. 64, no. 4, p. 354–361.

53) Dennett, D. Consciousness Explained. Little Brown, 1991, 597p.(日本語訳:解明される意識.山口泰司訳.青土社,1997, 511p.)

54) Kim, J. Mind in Physical World: An Essay on the Mind-Body Problem and Mental Causation. MIT Press, 1998, 146p.(日本語訳:物理世界のなかのこころ:心身問題と心的因果.太田雅子訳.勁草書房,2006, 225p.)

55) 心の一部である知覚的経験の存在をめぐる現代の議論も心がどのような存在者かという問題に関係している。McDowell, J. Mind and World: With a New Introduction. Harvard University Press, 1994, 191p.(日本語訳:心と世界.神崎繁ほか訳.勁草書房,2012, 404p.)

56) Fish, W. Philosophy of Perception: A Contemporary Introduction. Routledge, 2010, 177p.(日本語訳:知覚の哲学入門.山田圭一監訳.勁草書房,2014, 269p.)等.

57) また横山自身も検討している。横山幹子.「幻覚からの議論」:拡張段階と局所的付随性の原則.図書館情報メディア研究.2016, vol. 13, no. 2, p. 1–13.

58) 横山幹子.真正な知覚的経験と神経活動.図書館情報メディア研究.2017, vol. 14, no. 2, p. 1–13. 等.

59) Buckland, M. K. Information and Information Systems. Praeger Publishers, 1991, 225p. そこで,Bucklandは,Suzanne Brietの論を引いて,ドキュメントについて述べている.

60) Buckland, M. K. What is a “document”? Journal of the American Society for Information Science. 1997, vol. 48, no. 9, p. 804–809.(日本語訳:「ドキュメント」とは何か.高山正也訳.Records Management. 1997, vol. 32, p. 35–42.)

61) Information and Information Systems59)においても見て取れるように,BucklandはBrietの考えを評価していたと考えられる.

62) IFLA Study Group on the Functional Requirements for Bibliographic Records. Functional Requirements for Bibliographic Records. Final Report, 2009, 137p, https://www.ifla.org/files/assets/cataloguing/frbr/frbr_2008.pdf, (accessed 2020-4-2).強調は原著者.翻訳は筆者による.

63) 本邦でも,三浦俊彦.虚構世界の存在論.勁草書房,1995, 385p. を始めとする三浦の議論がある.

64) また近年のものでは,倉田剛.現代存在論講義II:物質的対象・種・虚構.新曜社,2017, 179p. 等.

65) Russell, B. On denoting. Mind. 1905, vol. 14, p. 479–493.(日本語訳:“指示について”.清水義夫訳.現代哲学基本論集I.坂本百大編.勁草書房,1986, p. 45–78.)

66) van Inwagen, P. Creatures of fiction. American Philosophical Quarterly. 1977, vol. 14, no. 4, p. 299–308.

67) Walton, K. Mimesis as Make-Believe: On the Foundation of the Representation Arts. Harvard University Press, 1993, 450p.(日本語訳:フィクションとは何か:ごっこ遊びと芸術.田村均訳.名古屋大学出版会,2016, 443p.)

68) Priest, G. Towards Non-being: The Logic and Metaphysics of Intentionality. Oxford University Press, 2005, 190p.(日本語訳:存在しないものに向かって:志向性の論理と形而上学.久木田水生,藤川直也訳.勁草書房,2011, 285p.)

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