哲学的な存在論や認識論が図書館情報学と密接に関係していることは,図書館情報学研究においても主張されており1),図書館情報学と哲学の関係についての代表的な研究者の一人であり,知識の組織化についての専門家でもあるBirger Hjørlandは,様々な認識論的立場と図書館情報学の関係を一般的な視点2)からも具体的な視点3)からも論じている。また,彼は,存在論に関しても,図書館情報学研究の際には一元論ではなく複数主義を採用すべきだとするClaudio Gnoli4)に反対して,図書館情報学研究は,存在論に関しては一元論を採るべきであるということを主張している5)。
Gnoliによれば,哲学的存在論は,図書館情報学の研究対象が何かという問題と関係しており,哲学的認識論は,研究の際の方法論と関係している。そして,彼は,存在論と認識論には関係があるので,研究方法としての認知的アプローチと社会学的アプローチが相補えるような存在論が必要であるとし,そのような存在論として複数主義が適切だと論じているのである。それに対し,Hjørlandは,Gnoliの主張を批判し,Gnoliが複数主義で解決しようとしている問題は,一元論的な視点でも解決できるとして,図書館情報学研究にふさわしい存在論は一元論であると主張する。そして,一元論的視点で研究方法としての社会学的,社会認識論的アプローチ,ドメイン分析を採用することができると論じていたのである。
それらの論争を受けて,2020年,横山6)は両者の対立を整理し,特に図書館情報学の研究対象である存在者としてのドキュメントに対する両者の捉え方の違いを指摘した。そして,両者の議論だけでは図書館情報学研究において一元論が適切なのか複数主義が適切なのかの決定的な答えを出すことができないということ,しかし両者の抽象的存在者を認めること(Gnoli)と物的存在者のみを認めること(Hjørland)の対立を現象説明の際の有用性に着目して検討すべきだという視点が重要であることを,同時に明らかにした。けれども,存在論的な立場の有用性の違いを具体的に検討することはしなかった。本論の考察は,具体的な研究方法と存在論とのかかわりを検討することによって,存在論的な立場の有用性の違いの検討に近づくことを目指している。
研究方法の対立としては,認知的アプローチと社会学的アプローチ(社会認識論的方法)の対立が考えられる。また,存在論の対立としては,客観的な存在者を認めるか否か(実在論か反実在論か),客観的な存在者を認めたとして,一元論をとるのかそれとも複数主義をとるのかが挙げられる。Hjørlandは社会認識論的方法をとりながら,客観的な存在者を認めたいと考え,そのためには,物的一元論が必要だとしているのである。そして,そのような存在論にふさわしい考えとして,知識の組織化については,ドメイン分析を提唱している。
ここでは,知識の組織化においてドメイン分析が適切な方法であるかどうかについては検討しない。また,ドメイン分析に最もふさわしい存在論が何なのかを決定することも,ドメイン分析に最もふさわしいようにHjørlandの存在論を改訂することも目指していない。ここで示したいのは,Hjørlandの主張するドメイン分析を支え,かつ,彼が求めたい実在論的な要求を満たすが,何を存在者として認めるかについては,物的一元論と異なる存在論がありうるということである。
そのために,まず,Hjørlandが図書館情報学研究において必要とされる存在論がどのようなものだと考えているかを確認する。次に,彼のドメイン分析とはどのような考えなのかをまとめる。それから,Hjørlandと目指しているものが類似していると考えられるHilary Putnamの存在論や,ドメイン分析との類似性が強いと考えられるMarkus Gabrielの存在論について述べ,それぞれとHjørlandの存在論やドメイン分析との関係を明らかにする。そして最後に,Hjørlandが知識の組織化において主張しているドメイン分析の目指しているところと矛盾せず有用性においても差がないが,しかし,Hjørlandのものとは異なる存在論がありうるのではないかということを論じる。
横山1)が2014年に論じたように,Hjørlandは,図書館情報学と哲学の関係の重要性を積極的に主張している図書館情報学者の一人である。彼は,論文“Arguments for philosophical realism in library and information science”(以降,論文“Arguments for”と略記)7)の中で,図書館情報学研究において「プラグマティックな実在論」の立場を取りたいと表明している。本章では,そこでの彼の議論を簡単に振り返り,彼が存在論としての実在論をどのように考えているのかを確認したうえで8),彼の近年の論文“The foundation of information science: One world or three? A discussion of Gnoli(2018)”(以降,論文“The foundation”と略記)5)と“Information retrieval and knowledge organization: A perspective from the philosophy of science”(以降,論文“Information retrieval”と略記)9)において,存在論に関してどのような立場が表明されているかを概観したい10)。
論文“Arguments for”7)において,Hjørlandは,“実在論の基本的な主張は,心から独立した実在が存在するということである。たとえば,山は人類の前に存在しており,それらは,人々が,山が存在すると信じるかどうか,山について考えるかどうか,山について何を考えるか,から独立に存在している”7)[p. 489]と述べている。彼によれば,ここで問題となっているのは,科学が真の世界を認識できるという意味での認識論的テーゼとしての実在論,認識論的実在論ではなく,心から独立した実体を認めるという意味での存在論としての実在論,形而上学的実在論である。そのような形而上学的実在論に対して,心から独立した実体を認めず,たとえば,熱帯魚が,観念や概念や社会的構成物などとしてのみ存在すると考えるのが,反実在論である。そして,論文“Arguments for”7)では,現代においては,経験主義を徹底することや,科学は客観性を目指すべきではないとして相対主義の立場をとるようなポストモダニズムの考えを源とする反実在論が優勢であり,たとえば,情報探索における研究活動が主に利用者の態度という主観的なものに向けられ客観性が重要視されてなくなってきているように,その傾向は図書館情報学にも広がっているとする。しかし,適合性という現象は主観的なものではなく客観的なものであり,情報を組織化するための基準は実在論的でなければならないというのが,彼の考えである。相対主義や主観主義を避けることのできるような知識の組織化を目指し,最初に共同体があることを仮定し,認識が社会構造と関係していることを認めたうえで実在論的な視点をとるドメイン分析が,目指すべき知識の組織化の方法であると主張するのである。彼が目指しているのは,社会構築主義と同様に社会的・歴史的視点の重要性を認めたうえで,相対主義や主観主義を避けるということであり,彼によれば,そのためには,実在論的な視点が必要なのであり,採用すべきは「プラグマティックな実在論」なのである。
それでは,「プラグマティックな実在論」とはどのようなものなのだろうか。論文“Arguments for”7)では,Hjørlandは,「プラグマティックな実在論」という立場に賛同しているが,それがどのようなものかははっきりとは示していない。それゆえ,次に,Hjørlandが論文“Information retrieval”9)において,「プラグマティックな実在論」についてどのように述べているかについて見てみたい。彼は,そこで,情報検索(IR)を知識の組織化(KO)で基礎付け,KOを科学の哲学で基礎付ける必要があるということを論じている。そして,科学の哲学で基礎付ける際に必要なのが「プラグマティックな実在論」であると言うのである。
Hjørlandによれば,知識の組織化とは,“ドキュメントや情報をインデキシングし,タグ付けし,分類し,記述し,組織化するような,知識を組織化するプロセスについてのものである。そして,分類システムやシソーラス,オントロジーのような知識の組織化システム(KOS)についてのものである”9)[p. 2]。また,“ドキュメントや情報を組織化するために発展してきたKOSは,第一に,概念を組織化することに関係している”9)[p. 2]。そして,鳥についてのドキュメントを組織化する際に鳥類学の知識が必要とされるように,概念を組織化するためには,関係するドメインの知識が必要となる。それゆえ,KOを単に直観的なプロセスだと考えるのでも,個々の利用者の情報ニーズだけに着目し認知的アプローチをとるのでも,利用者による情報に対するタグ付けに注目するのでも,最適なアルゴリズム等の技術的問題のみに注目するのでもなく,KOにおいては主題知識を重要視する視点が重要なのである。また,KOへのアプローチも,心理学的・認知的理解と技術的理解の二分法では不適切である。なぜなら,利用者指向の適合性は主観的なものになってしまう可能性があるし,コンピュータに基づく適合性の基準を決定するのは人間だからである。それゆえ,第三のやり方として,“それに従えば,人間の情報ニーズと技術的アプローチはともに,行為者(コンピュータプログラマーや仲介者を含む)の理解や背景知識によって影響されるものとして理解される。そして,行為者の理解や背景知識は,行為者がそこにおいて社会化されてきた,社会的文脈と専門分野的文脈,伝統,パラダイムによって形づけられる”9)[p. 3]ものとしてのドメイン分析が必要とされるのである。
では,知識や情報を見つけるのを助けるという点で,KOと同じ目的を持っているIRはどのようなものであり,どのような問題点を持っているのだろうか。Hjørlandは,IRの最近の主流はグーグルのようなサーチエンジンであるとしたうえで,そのようなIRの特徴は,インプットへの反応としてドキュメントのセットを検索するという点にあると言う。しかし,彼によれば,質問に関連しているけれども知られていないドキュメントは検索者に知られていない概念や記号体系を持ちうる。いずれにせよ,検索のトピックはまず概念化されなければならない。彼によれば,KOSでは,たとえば,地理学に基づいて都市の分類をするように,グーグルのようなサーチエンジンと“KOSに基づく検索との主な違いは,KOSに基づく検索が関連する術語や記号や概念を導き,同定するのを助けるために概念構造を与えるということである”9)[p. 4]。グーグルのサーチエンジンのような主流のIRは,ドキュメント自体からの情報に基づくものであり,KOは概念間の意味論的関係を問題とするものである。KOが概念間の意味論的関係を問題にするので,KOSは,科学的学術的研究に支えられなければならないのである。そして,正確な一致,最善の一致,人気度,検索者ごとの個別対応を重要な原則とする主流のIRに欠けているのは,科学的,学術的基準である。たとえば,スウェーデンの都市を探す場合も,地理学の研究に基づいた地図があるなら,クエリによるIRも地理学の研究に基づいて答えられる。“IRが(たとえば,人気に従ってもしくはドキュメントが含む関連する語についての探索者の推測に従ってより)科学的な信頼性に従ってドキュメントを見つけるべきだという原則は,明らかな要求であるように思える”9)[p. 7]と彼は言うのである。
KOが意味論的な関係を問題としているので分類システム,シソーラス,オントロジーのようなKOSも意味論と関係しているとHjørlandは言う。そして,用語集(Glossary),分類法(classification or taxonomy),シソーラス,オントロジーというKOSは,用語集からオントロジーに向かう順に,意味論的豊かさを増やしていくと言うのである。彼によれば,まず,ドキュメントを分類するための書誌分類が考えられる。それは,世界のなかの事物の分類,人文科学等も含む意味での科学的分類を反映している。KOSは,更新され続ける信頼に足る知識と関係していなければならないのである。分類のポイントは,属関係が重要であること,クラスの名前,たとえば,「鳥」などが概念だということ,そして,概念は,言語表現として語彙化されるということである。それよりも意味論的に豊かで,分類システムを含むようなKOSとして,彼はシソーラスを考える。彼によれば,シソーラスとは概念を語彙化し,それらの関係を明らかにしているものである。そして,シソーラスとKOSの意味論的階段のより高いところにあるオントロジーとの違いは,限定され事前に定義された意味論的な集合だけを使っていることである。それゆえ,オントロジーとは,その集合を拡張するようなものであり,階段のより高いところにあり,分類システムやシソーラスを含みうる。分類システムからオントロジーに意味論的階段を上ることによって,意味論的関係の数が増加するのである。それゆえKOSにおいて概念が重要なのである。
では,概念とは何なのか。それを説明するために,Hjørlandは,意味の三角形という考え11)を使う。三角形の三つの頂点には,指示対象(referent),シンボル(symbol),思想(thought)もしくは言及(reference)がある。シンボルは,思想もしくは言及をシンボライズし,思想もしくは言及は,指示対象を指示する。シンボルは,指示対象を表す(stand for)が,その関係は,あくまで,誰かもしくはあるシステムによって関係付けられている。指示対象はあくまで,概念や意味の媒介によって,シンボルと結びついているのである。そのように考えるならば,シンボルの指示対象に対する関係は,たとえば,Thomas Kuhnの科学哲学などで言われていることの影響を受ける。Kuhnによれば,プトレマイオス流の天文学のパラダイムにおける「星」とコペルニクス流の天文学のパラダイムにおける「星」は意味を異にする。そして,それは過去の話ではなく,たとえば,遺伝子による分類が出てくることによって変化した現代の鳥類学でも生じていることである。パラダイムが違えば語の意味は共約不可能であり,どのパラダイムを使うかによってKOSにおける組織化は異なってくる。このように考えるならば,概念は,個人内部の内的表象ではない。概念は,全体論的なものであり,興味や理論に従って世界を分類する中で意味を持つものである。そう,Hjørlandは言うのである。
その上で,Hjørlandは,パラダイムシフトが起こる可能性を排除できない以上,あるグループの人々が「惑星」を同じやり方で定義するように,あるグループの人々が何らかのものに同じ意味を結びつけているということだけでは十分ではないと言う。「惑星」の定義はグループによって異なりうる。彼によれば,あるグループの人々が何らかのものに同じ意味を結びつけているだけでは,それが心から独立した実在を示しているとは保証されないのである。けれども,彼はそのことを認めたうえで,実在論を主張しようとする。そのために彼が主張するのが「プラグマティックな実在論」である。彼によれば,“プラグマティックな実在論は,パラダイム全体が実在のよりよい表現(representation)に向けて発展し,科学は進歩し(Kuhnの見解と矛盾するが),よい科学は観察や論理学以上のものであるという見解である。それはまた価値や社会的興味についてのものでもある。研究は同時代の実在や社会的興味を反映している。…科学の実在論は良く定義された方法論によって与えられるのではなく,自己を正していくメカニズムによって,そして,理論の受入におけるプラグマティックな要素の役割によって与えられる”9)[p. 21]。彼によれば,何を存在すると見なすかは理論やパラダイムに含まれている一方で,われわれは自由に実在を生み出すことはできないのであり,われわれは心から独立した実在が存在するということを主張できる。そしてそれは,理論の受入の際に,事象をよりよく説明できるというプラグマティックな要素12)に注目するために,「プラグマティックな実在論」なのである。
このように,「プラグマティックな実在論」を主張するHjørlandは,同時に,物理主義(materialism)を主張し,一元論を主張する。彼の主張する一元論とはどのようなものなのだろうか。最後に,論文“The foundation”5)で,Gnoliの複数主義に反対する形で提出されている一元論がどのようなものであるかを概観したい。
Hjørlandは,Gnoli4)が,図書館情報学研究の理論的枠組みとしてNicolai HartmannやKarl Popperの実在のレベルの理論を取り上げ,Hartmannの客観化された精神やPopperの世界3を重要視し複数の世界を考えているとしたうえで,それを批判する形で一元論を主張している。
Hjørlandによれば,“一元論は,事物もしくは原理に唯一の基本的な種類,カテゴリーだけがあるとする理論である。それは,事物もしくは原則の二つの基本的な種類があるという理論である二元論や,一般的ではないが,多くの種類もしくはカテゴリーがあるという見解である複数主義と比較される”5)[p. 166]。そして,ここで彼が主張している一元論とは,心の哲学の意味での一元論である。心の哲学では,心的なものと物的なものの両方の存在を共に認める立場である二元論と,物的なものの存在だけを認める一元論との対立がある。彼は物理主義をとり,物的なものの存在だけを認める一元論を主張するのである。
そのような一元論を主張する一方で,Hjørlandは,当該論文で,実在のレベルの理論を認めると言っている。そのことは矛盾しないのだろうか。彼によれば,一元論を採用することと実在のレベルの理論を認めることは矛盾しない。なぜなら,彼は,“「心」は「物」と異なる何らかのものとしてではなく,物のある進化的な産物として理解されるべきである”5)[p. 166]と考えるからである。たとえ上のレベルにあるものとして心的現象があるとしても,彼によれば,それは,物の進化の産物なのである。彼は次のように言っている。“「世界3」(もしくは「客観化された精神」もしくは「アーティファクトとメンティファクト」)13)も,進化のより高い形式の部分として,つまり,物的世界の部分として一元論的に理解されなければならないのである”5)[p. 166]。たとえば,人間の作った物的対象は,特定の発現(manifestation)として,心的現象を持つのである。したがって,人間の意識によって生み出された一方でそれを生み出した意識から独立した存在者のような抽象的存在者を認める必要はないのである。Hjørlandによれば,進化的に考えることによって,一元論的な視点でも,文化的なものを理解することができる。そのことは,物的世界,進化のある段階から心を伴う生物学的世界,同様に心を伴う社会文化的世界という考えを認めたうえで,それを進化的に考えるということを示している。彼は,“生物学的世界,心の世界,そして社会文化的世界は,新たに出現した諸性質を伴う新しいレベルの進化として一元論的な視点から理解されることができる”5)[p. 168]と言うのである。
以上のように,Hjørlandは,存在論的な実在論として,「プラグマティックな実在論」を主張し,世界はわれわれが作り出したものではないとして,相対主義や主観主義を避けようとする。そのうえで,メンティファクトのような抽象的存在者を認めず,それは物的なものであると言うのである。そして,彼によれば,実在のレベルの理論を採用するとしても,進化の視点から一元論を主張することができるのであり,物的存在者以外の抽象的存在者を認める必要はないのである。
Hjørlandは,論文“Domain analysis”14)において,知識の組織化へのドメイン分析的なアプローチがどのようなものなのかについて述べている。ここでは,そこでの論を中心としながら,論文“Toward a new horizon in information science: Domain-analysis”15),論文“Domain analysis in information science: Eleven approaches- traditional as well as innovative”(以降,論文“Domain analysis in information science”と略記)16),論文“Afterword: Ontological, epistemological and sociological dimensions of domains”(以降,論文“Afterword”と略記)17),論文“Information retrieval”9)も参照し,彼の考えるドメイン分析がどのようなものなのかについて概観したい。
Hjørlandは,第II章で確認したように,論文“Information retrieval”9)で,情報検索(IR)と知識の組織化(KO)は共に,知識や情報を見つけるための手助けをするという共通の目的を持っているが,グーグルのようなサーチエンジンに使われるシステムを作ることに関係している現代のIRは,それぞれのドメインで培われてきた学術的な「知識」や「知見」に基づいていないと述べていた。そして,その一方で,KOがそのような学術的な「知識」や「知見」に基づいてドキュメントや知識を分類・表現しようとしているとして,KOの重要性を説き,IRをそのようなKOに基礎づけることの必要性を論じていた。その際,彼は“KOへのアプローチは,一方では,心理学的,認知的理解,他方では技術的理解の二分法によって,たいてい支配されてきた”9)[p. 3]ということを認めたうえで,KOにおいてその二分法を止め,ユーザーアプローチでもシステムアプローチでもない第三のアプローチ,ドメイン分析が必要だと主張していたのである。
ドメイン分析とはどのような考えだろうか。Hjørlandは,論文“Domain analysis”14)において,“ISのための最も実りある地平は,社会的分業の一部(parts of society’s division of labor)である,思考もしくは言説の共同体としての知識ドメインを研究すること”14)[p. 436]なのであり,それがドメイン分析だと述べている。彼によれば,そのようなドメイン分析は,ソフトエンジニアリングにおけるドメイン分析(アプリケーションのエリアとしてのドメインを問題とする)等とは異なる。“ドメイン分析は,LISとKOについての理論であり,それへのアプローチである。KOの対象は,特に知識の組織化システム(KOS)と知識の組織化プロセス(KOP)であると一般化されることができる。…ドメイン分析は,社会学的視点と認識論的視点を統合した視点からKOSとKOPの問題にアプローチし,主題知識の重要性を強調する”14)[p. 437]のである。そのように,彼によれば,ドメイン分析の特徴は,それが社会学的視点と認識論的視点を統合した視点から問題にアプローチしていることと,それが主題知識の重要性を強調している点にあるのである。ただし,ドメイン分析が主題知識の重要性に焦点を当てるからといって,情報の専門家の特定の能力が主題知識にあるわけではない。情報の専門家に特有の能力は,情報を媒介することに関するものである。そして,彼によれば,社会学的視点と認識論的視点,主題知識の重要性を強調する“ドメイン分析は,情報システムや情報サービスの最適化を,特定の内容や要求という視点から考えるLISの方法論なのである”14)[p. 438]。
そしてHjørlandは,そのようなドメイン分析を行うための観点として論文“Domain analysis in information science”16)で11のアプローチを挙げ,その11のアプローチを論文“Domain analysis”14)でも再掲している。言葉の言い回しは多少違うが同様のアプローチと考えられるので,以下では論文“Domain analysis”14)で挙げられているものを示す。
- 文献ガイドとサブジェクトゲートウェイの構築と評価
- 特殊分類表(special classification)とシソーラスの構築と評価
- 特定領域の情報のインデキシングと検索におけるコンピテンシーについての研究
- 主題エリアにおける経験的利用者研究についての知識
- 計量書誌学研究の構築と解釈
- ドメインにおける情報構造や情報サービスについての歴史的研究
- 知識ドメインにおけるドキュメントやジャンルの研究
- ドメインにおけるパラダイムや想定や興味の違いについての認識論的批判的研究
- 知識分野におけるターミノロジー研究,LSP(特定の目的のための言語),ディスコース分析の知識
- 特定のドメインの科学的コミュニケーションや専門家のコミュニケーションにおける構造と制度の研究
- 専門家の認知,コンピュータサイエンスにおける知識表現,人工知能についてのドメイン分析的研究から得られる方法や結果についての知識14)[p. 436–437]
論文“Domain analysis in information science”16)でも述べているように,彼はこの11のアプローチが網羅的であるとは考えてはおらず,論文“Domain analysis”14)でも他のアプローチがありうることを認めている。ここで重要なのは,それらの視点が結びついているということであり,これらのアプローチについての知識がLISの専門家の能力であるということである。
たとえば,論文“Domain analysis in information science”16)において「文献ガイドとサブジェクトゲートウェイ」についてどのように述べられているかを見てみよう。Hjørlandによれば,専門分野,学問分野は,主題についてのガイドを必要とする。ドメイン分析へのこのアプローチでは,あるドメインにおける資料を概観し,それを情報検索におけるその特定の役割や機能に従って分類し,様々な種類の分類法を発展させ,個々のレファレンスワークの特徴を記述し,重要な資源を選択し,情報源をどのように使うかのガイドラインを与える。そして,そのアプローチは,ドメイン分析の他のアプローチ,たとえば,「特殊分類法の構築」というアプローチとも結びついて行われる。
では,ドメイン分析で言われているドメインとは何であろうか。Hjørlandによれば,ドメインは一つの専門分野である場合もあるがそうである必要はない。また,主題分析の対象とも異なる。ドメインは,理論的に一貫している,もしくは社会的に制度づけられている認知的分野であり,“ドメインは世界の既成の区分ではなく,ダイナミックで発展途上であり理論に依存した区分である”14)[p. 439]。そしてドメインに関しては,社会的次元と認知的次元の両方が考えられなければならない。彼は論文“Afterword”17)での考えを再掲する形で,ドメインの構成(constitution)には,以下の三つの次元の相互作用があると指摘している。
- (1)人間の活動の対象についての存在論的理論と概念
- (2)知識と知識を獲得する方法についての認識論的な理論と概念。それは対象が探究されるべき方法についての方法論的な原則も含む
- (3)その対象に関係する人々のグループについての社会学的概念14)[p. 440]
そのように構成されるドメインは,記述され分析されるべきものであると同時に,われわれによって生み出されるものである。ドメインがわれわれにとって記述され分析されるべきものとしてあるということは,人が生まれてくる世界が言語や学校の教科や専門分野等によって組織化されているということを意味している。また,われわれによってドメインが生み出されるということは,ドメインを生み出したのは人間であり,それを変化させていくのも人間であるということである。ドメインは記述され分析されるべきものであると同時にわれわれによって生み出されるものであるので,ドメインの研究は解釈学的スパイラルを示している。つまり,“あなたはあなたの前理解に基づいてドメインを探究し始める。あなたの研究につれて,あなたの知識は変わる。そしてあるスパイラルにおいてあなたがドメインを研究するやり方を変えさせる”14)[p. 440]。ドメインが知的組織という本質と社会的組織という本質の二つの本質を持っているという点に注意することが重要なのである。
そのようなことを踏まえたうえで,Hjørlandはドメインについて次のように言っている。
ドメインは,存在論的コミットメント18),認識論的コミットメントを共有する人々のグループの知識として社会的,理論的に定義される知識の集まり(body)である。ドメインはしばしばアカデミックな専門分野であるが,また例えば趣味でもありうる。異なる理論や異なる社会的興味は異なるドメインを構成するかもしれない。そしてそれゆえ分類者は,構成がそれに基づいている興味や理論的見解に関して理解しているべきである。LISとKOの視点から,ドメインにおける情報の変化を最適化することが重要である。それゆえ,ドメイン分析のよい候補であるためには,ドメインはあるレベルの安定性と基礎構造を持つ必要がある14)[p. 441]。
そのようなドメイン分析の例として,Hjørlandは,Øromによる芸術史のドメイン分析19)を挙げている。Hjørlandによれば,Øromは,芸術史における,いくつかの伝統的な「パラダイム」(たとえば,「図像学のパラダイム」等)と伝統的なパラダイムへの批判を提示し,それが知識の組織化とどのような関係があるかを議論している。そして,Hjørlandによれば,その議論からわかることは,“LISの分類は独立ではなく,それが扱っているドメインにおけるパラダイムを無視できない”14)[p. 443]ということであり,逆に,LISの分類のスキームもドメインにおけるパラダイムに影響を受けているということであり,“分類の構築は,そのドメインにおける基礎的なパラダイムを同定する必要があり,それらの間もしくは中から)選択もしくは妥協する必要がある”14)[p. 443]ということである。そしてこのことを理解できている情報の専門家の方が,よりよく知識の組織化を行うことができる。
以上のように,Hjørlandの考えるドメイン分析とは,“ドメインにおける異なる理論や「パラダイム」や伝統を考えるときにのみ,研究はドメイン分析であると考えられる”14)[p. 445]社会認識論的なものなのである。そのような視点は,論文“Information retrieval”9)で,Hjørlandが分類とKOへのドメイン分析的アプローチが以下のようになされると示しているところからも見て取れる。
- ドメインを一つ選び,そのドメインに行きなさい。
- 現代の知識(異なる見解も含む)に従って,それがどのように分類されるかを見なさい。
- そのドメインの基礎や,認識論的仮定を議論し,提案されている分類がどのような興味に役立つのかを議論しなさい。
- 以上の仮定から想定される分類を示しなさい9)[p. 21]。
そのようにHjørlandの言う社会認識論的なドメイン分析とは,論文“Information retrieval”9)の言葉を借りれば,“行為者がそこにおいて社会化されてきた,社会的文脈と専門分野的文脈,伝統,パラダイム”9)[p. 3]に着目し,パラダイムが異なるならば,存在論的コミットメントや認識論的コミットメントが変化することを理解したうえで,KOを行っていこうとする試みであり,認知的理解と技術的理解の二分法を,言い換えるならば,ユーザーアプローチとシステムアプローチの二分法を越えた新しいアプローチなのである。
以上見てきたようなHjørlandのドメイン分析は,それぞれのドメインで何を存在しているものと見なすかが異なるということを認めているように思える。そのことは,複数の存在者を認めていることにならないのだろうか。にもかかわらず,Hjørlandは物的一元論を主張していた。そのことは矛盾しないのだろうか。それを考えるための手がかりとして,Hjørlandと目指しているものが類似していると考えられるPutnamの「広い意味での形而上学的実在論」と,ドメイン分析との類似性が強いと考えられるGabrielの「新しい実在論」について見てみたい。そしてその後で,それらとHjørlandの考えとの関係性について考えたい。
A. Putnamの「広い意味での形而上学的実在論」
横山20)は,“論理実証主義の立場から出発したPutnamは,彼の実在論に対する考えを何度か変化させている。初期に形而上学的実在論の立場をとっていた彼は,1970年代後半から80年代初めに,内的実在論と呼ばれる立場に転向する。そして,1990年代には,その内的実在論の立場から自然な実在論の立場に変わる。本論文で主に取り扱うデューイレクチャーは,彼が自然な実在論をはっきりと表明しているものである”20)[p. 12]と述べた。そして,Putnamが自然な実在論の立場で目指していたことは,“形而上学的な空想に後退することなく,われわれの知識の主張は実在に対して責任を持っているというわれわれの感覚を正当に評価することができる道があるなら,その時は,われわれがその道を見つけること”21)[p. 4]であった。Putnamはその目的を維持したまま,晩年において,「広い意味での形而上学的実在論」を主張することになる。しかし,彼が主張する「広い意味での形而上学的実在論」は,かつて彼が批判した形而上学的実在論とは異なる。ここでは,Putnamの「広い意味での形而上学的実在論」がどのようなものであったか,その考えの背景にある「寛大な(liberal)自然主義」とはどのようなものであったかを概観し22)23),その考えとHjørlandの「プラグマティックな実在論」との類似性を確認する。
Putnamの言う「広い意味での形而上学的実在論」とはどのようなものだろうか。彼は,自分が以前に「形而上学的実在論」で考えていたのは“世界が(心から独立した)対象と性質に正確に一つのやり方で分けられることができるという主張”23)[p. 24]であると言う。しかし,彼によれば,そのような意味での形而上学的実在論とは違う「広い意味での形而上学的実在論」が考えられる。その考えによれば,“人は概念相対性の可能性を受け入れ,かつ同時に,内的実在論を拒否することができる”22)[p. 154]。ここで言う内的実在論とは,すべての無矛盾な理論は無数の可能な解釈を持つというスコーレムのパラドックスを受け1970年代後半から1980年代初めにPutnamが採用していた見解である。当時のPutnamは語の意味はその語をどのように検証するかであるという意味の検証理論をとり,“世界がどのような対象からなるかということは,理論もしくは記述の内部で尋ねるときにのみ意味を持つ問題である”24)[p. 49]とする一方で,真理を理論に相対的なものと考えず,真理を十分によい認識的状況のもとで検証されることと同一視することにより相対主義を否定しようとしていた。したがって,「広い意味での形而上学的実在論」とは,理論は意図された解釈以外の意図されない解釈を持ちうるという概念相対性を認めたとしても,内的実在論とは異なり検証可能性を越えた真理を認めることができるということを主張するものなのである。そしてその考えでは,世界は心から独立しておりその真理は検証可能性を越えているとしたうえで,世界を記述するやり方が複数ありうるということを認めることになる。
このような「広い意味での形而上学的実在論」の背後にあるのは,「寛大な自然主義」という考えである。Putnamによれば,自然主義を主張するからと言って,すべての概念を自然科学の概念に還元できると主張する必要はない。美学の概念や倫理学の概念を自然科学の概念に還元できないからと言って,そのことは,それらが非自然的であることを意味しない。「寛大な自然主義」は,“哲学における超自然的な実体にアピールするすべてのものを拒絶するという意味での自然主義”23)[p. 22]である。
そのように「寛大な自然主義」について述べたうえで,Putnamは,“たとえ私が実際に寛大な自然主義者であるとしても,そのラベルは,私の哲学における多くのことを言っているわけではない”23)[p. 24]と言う。寛大な自然主義が,具体的な問題に対してどのように説明を与えるかは個々に見ていかなければならないのである。そしてPutnamは,心についての「寛大な自然主義」のために「寛大な機能主義」を主張する。彼は,心的活動や能力を脳の機能的状態に還元することができないとしても,心的活動や能力を機能と同一視できるような機能主義として「寛大な機能主義」を考えるのである22)25)。彼によれば,感覚受容器へのインプットと脳からの運動器官へのアウトプットだけを問題にし,脳の計算的な機能と心的活動や能力を同一視するような機能主義は適切ではない。しかし,われわれの心的活動や能力が環境との相互作用的なものであると考え,機能のなかに環境の要素も取り込む機能主義をとるならば,われわれは心的活動や能力を機能的なものとして捉えることができるのである。
B. Gabrielの「新しい実在論」
ここでは,論文“Existenz, realistish gedacht”26),Warum es die Welt nicht gibt27)に従って,Gabrielの提唱する「新しい実在論」がどのようなものであるかについて概観したい。
Gabrielは,ポストモダン以降の哲学的立場として,「新しい実在論」を唱えている。彼によれば,ポストモダンはそれまでの形而上学を幻想であるとして初めから根本的にやり直す試みであったにもかかわらず,実際には新しい幻想を示しているだけである。ポストモダンが否定している形而上学がわれわれに現れているものとしての事物と真の事物を区別する一方で,ポストモダンは構築主義の立場をとりわれわれに現れているものとしての事物だけが存在するとするが,このような立場は形而上学の変種だと,彼は言うのである。そして,“人間の存在や認識は集団的な幻覚でもなければ,われわれが何らかの表象世界や概念システムに閉じ込められていて,その後に現実の世界があるわけでもない。「新しい実在論」は,むしろ,われわれは世界がそれ自体そうであるようなものとして世界を認識することから始まる”27)[p. 13]と述べ,「新しい実在論」が必要であるとするのである。
では,Gabrielが唱える「新しい実在論」とはどのようなものなのか。彼は,それをヴェスヴィオ山の例を挙げて説明している。私とあなたがナポリからヴェスヴィオ山を見ており,アストリート(私とあなた以外の誰か)がソレントからヴェスヴィオ山を見ている場合を想定する。その場合,形而上学の主張では,唯一の現実の対象としてヴェスヴィオ山が存在することになる。また構築主義の主張では,アストリートにとってのヴェスヴィオ山,私のヴェスヴィオ山,あなたのヴェスヴィオ山という三つの対象が存在するが,その後にそもそも現実の対象はないか,もしあったとしても,そのような対象をわれわれは認識できない。それに対して,「新しい実在論」では,“このシナリオには,1. ヴェスヴィオ山,2. ソレントから見られているヴェスヴィオ山(アストリートの視点),3. ナポリから見られているヴェスヴィオ山(あなたの視点),4. ナポリから見られているヴェスヴィオ山(私の視点)の少なくとも四つの対象が存在している”27)[p. 14–15]とする。彼によれば,“新しい実在論は,われわれがそれについて考えている事実と同様にそれと同じ権利をもって事実についての思考も存在すると想定する”27)[p. 15]ものなのである。古い実在論である形而上学が観察者のない世界にしか関心がなく,構築主義が世界を観察者にとっての世界としている一方で,“この世界は,もっぱら観察者のない世界であるわけでも,もっぱら観察者の世界であるわけでもない”27)[p. 15]と主張するのが「新しい実在論」だと,彼は言うのである。
Gabrielによれば,“世界は存在しないが,世界以外のすべては存在する”27)[p. 18]。そのことが何を意味するのかを理解することは,彼が主張する「新しい実在論」がどのようなものかを理解するためには必要である。次にその点について見てみたい。
Gabrielによれば,世界は宇宙(Universum)と同じではない。宇宙は自然科学の対象領域である。ここで対象領域とは何であるかを確認しておかなければならない。“対象領域とは,特定の種類の諸対象を含む領域のことである。そして,そこでは,それらの対象をお互いに結びつける規則が決まっている”27)[p. 35]と彼は言う。たとえば,政治という対象領域には有権者や町や村のお祭り等多くのものが属しているのである。彼によれば,対象領域は必ずしも空間的に限定されず,対象を結びつける規則や法則によってそれぞれの対象領域に何が属するかが決まっている。そしてすべての対象は対象領域に現れ,多くの対象領域が存在する。宇宙について語るときも同じことが言える。そのように,宇宙は自然科学の(特に物理学の)対象領域だということになるのである。“宇宙とは,第一に,そこにおいて,自然科学の方法で実験的に探究されるすべてのものが現れる何らかのもの”27)[p. 37]なのである。それゆえ,すべての存在者が宇宙のなかにあるというのは,植物学を研究しているからといって存在するのが植物だけだと考えるようなものであり,世界を宇宙と同じだと考えることは,複数の対象領域の一つを世界全体と間違っていると彼は言うのである。
Gabrielによれば,宇宙と世界を混同することが,唯物論(Materialismus)28)を生んでいる。ここでの唯物論とは以下の二つのテーゼを意味するものである。“第一に,すべての存在者は宇宙のなかに現れる。第二に,宇宙に現れるすべてのものは,物質的(materiell)であるか,少なくとも物質的な基礎を持っている”27)[p. 42–43]。このような唯物論によれば,われわれの心も物質的なものと考えられ,心の働きである思考も物質的なものである脳の状態と考えられることになる。しかし,彼によれば,それは多くの問題点を含む。物質的なものである脳の状態がどうして物質的でないもの(たとえば,三つのスライム頭を持ったスライム状の地球外生物が本を書いているということ)を想像という形で対象にできるのか,自分がそれについて考えている物質的な状態が想像でないとどうやって説明できるのか,物質的でない表象の存在を認めないとそれが物質的なものと同じだと言えないのではないか,唯物論という理論の正しさはその考えが脳の状態にあるということではないのではないか等の問題があるというのである。
したがって,Gabrielによれば,世界は宇宙と同じではない。“宇宙は自然科学の対象領域だけを含む”27)[p. 50]。世界は宇宙よりも広いものである。世界は,国家も夢も実現しなかった可能性も芸術作品も世界についてのわれわれの思考も含んでいる。“したがって,世界とは,われわれがいなくとも存在するすべての事物や事実だけでなく,われわれと共にのみ存在するすべての事物や事実もそこに存在している領域であるだろう”27)[p. 18]と彼は言い,世界とは,あるとするならば,すべてを包括する「すべての領域の領域」だとするのである。そして,そのような意味での世界は存在しないが,世界以外のすべては存在するというのが,彼の主張なのである。
以上のように,「世界」を理解できるとして,では,「存在」とはどういうことであろうか。Gabrielによれば,ここでの存在論は,世界とは何かについて体系的に答えようとする形而上学とは異なる。そうではなく,存在論とは,“存在とは何か,「存在」という表現は何を意味しているのかという問いに体系的な返答”27)[p. 68–69]を目指すものである。求められているのは,われわれの経験とうまく調和する存在論である。
では,そのような存在論とはどのようなものなのだろうか。Gabrielによれば,“われわれが係るすべての対象は特定の性質を持っている”27)[p. 70])。たとえば,自分の愛犬が自分の愛犬であるのは,それが,四本足という性質や茶色と灰色の混じった毛を持つという性質等々を持っているからである。それゆえ,彼は,“対象や対象領域を区別するのは,それぞれの対象や対象領域に与えられている性質である”27)[p. 70–71]と言う。そして,彼は,草原にいる一頭のサイが存在するということは,そのサイが草原という意味の場に現れているという状態であるという例を挙げ,“存在とは何かが意味の場(Sinnfeld)に現れている状態”27)[p. 68]であると言う。つまり,彼は,“存在=ある意味の場に現れること”27)[p. 87]という存在論を主張するのである。それを彼は「意味の場の存在論」と呼ぶ。彼の言う「意味の場の存在論」とは,“何らかのものがそこに現象している意味の場が存在するときにのみ,何らかのものが存在し,何も存在しないということはない”27)[p. 87]という考えである。そして,彼によれば,“意味の場の外部には,いかなる対象も事実も存在しない。存在するものはすべて,ある意味の場に現れる”27)[p. 92]のである。
では,意味の場とはどのようなものであるとGabrielは考えているのだろうか。彼は,意味の場と対象領域を区別する。彼は次のように言っている。
意味の場は,曖昧で,雑多で,相対的に規定が不足しているものでありうる。対象領域は,互いに明らかに区別された加算的な多くの対象からなる。意味の場には,このことは無条件には当てはまらない。意味の場は様々な両面価値的な現象も含みうる27)[p. 88]。
意味の場は,対象領域より曖昧でありうるものとして考えられている。つまり,はっきりと規定されていなくとも,意味の場でありうるということである。対象領域が意味の場として現われることはありうるが,すべての意味の場が対象領域であるわけではないのである。
「意味の場」と言っているときGabrielの念頭にあるのは,対象の与えられ方を「意義(Sinn)」としたGottlob Fregeの考えである。Gabrielによれば,“意味の場とは,何らかのもの,特定の諸対象が,何らかの特定の仕方で現れる領域である”27)[p. 91]。Gabrielは次のように言っている。
すべての存在者は意味の場に現れる。存在とは,意味の場の性質,何らかのものが意味の場に現れているということである。私が主張しているのは,存在とは世界や意味の場における対象の性質ではなくむしろ意味の場の性質であるということ,つまり,何らかのものがその意味の場に現れているということが存在であるということである27)[p. 94]。
では,「存在」ということを以上のように捉えるとしたら,すべての領域の領域としての世界はなぜ存在しないのだろうか。それは,論理的に答えられるとGabrielは言う。何かが存在すると言えるのは,その何かが何らかの意味の場に現れるときだけである。「すべての領域の領域」としての世界は,“すべての意味の場の意味の場,すべての他の意味の場がそこに現れる意味の場”27)[p. 97]である。しかし,世界それ自体は,世界のなかに現れることがない。“世界は,世界のなかに現れないので,原理的に存在できない”27)[p. 22]のである。このことは,先に述べた「意味の場」という語を使えば,世界はすべての意味の場を包括する領域であるはずだが,世界自体が属する意味の場はないということになる。彼は次のように言っている。“世界は存在しない。もし世界が存在するならば,その世界は何らかの意味の場に現れなければならないが,それは不可能である”27)[p. 102]。
また,世界が存在しないということについて,次のような議論もしている。つまり,世界とはすべての可能な性質を持った対象(超対象(Supergegenstand))であるはずだが,そのようなものは存在しない。なぜなら,実際にすべての性質を備えた対象を認識できないだけでなく,すべての性質を備えているなら他のすべてと自らを区別する性質を示すことができないので,すべてのありうる性質を備えた対象は存在しえないからである。
さらに,世界が存在しないということに関して次のような根拠も挙げている。その根拠とは,世界のなかでは,どの対象も他のすべての対象から区別されるはずだが,そのようなことはないということである。Gabrielによれば,ここで求められているのは,すべての他の対象と区別されるという意味での絶対的区別であるが,そのようなものには情報的価値はなく,“何がある対象から他の対象を区別するかを知ることは,われわれが対象についての知識を持つことのうちにある。それゆえ,情報的でない区別は区別ではない”27)[p. 84]のである。われわれは,相対的区別(ある対象とほかのいくつかの対象との区別)を行っている。そして,それは,コカ・コーラとペプシのように,対照関係の情報によって得られるものであり,対照関係は状況に依存している。そのため,いくつかのものがほかのいくつかのものから区別されるということはあっても,他のすべての対象から区別されるということはないのである。
上記のような根拠を挙げて,Gabrielは,世界は存在しないと言うのである。そして,彼によれば,すべての領域の領域としての世界が存在しないということは,すべてを記述する規則がないということも意味する。
では,世界以外のすべてが存在するとは,どのようなことを意味しているのだろうか。Gabrielは友達とのレストラン訪問の場面を例に出し説明している。彼によれば,そこにはすべてを包括する領域などない。自分たちだけがいるのではなく,他のお客さんたち,サービスを提供する人たち,レストランの所有者,レストランに住む虫,われわれの目に見えないバクテリア等がいるし,消化不良という出来事,ホルモンの変動という出来事,原子以下のレベルでの出来事等がある。そして,それらの出来事や対象は関連していたり関連していなかったりする。そのような例を挙げた後で,彼は次のように言うのである。“したがって,レストラン訪問において,多くの対象領域,いわば小さな孤立した諸世界がある。そして,それらは,現実には互いを見つけることなく,並んで存在している。したがって,多くの小さな世界はあるが,それらすべてが属する一つの世界はない。これは,多くの小さな世界が一つの世界への様々な視点であるということを決して意味しない。むしろ多くの小さな世界だけがまさにあるということを意味している。多くの小さな世界は現実にあるのであって,ただ私の空想の中にあるのではない”27)[p. 19]。
ここで,多くの対象領域,多くの小さな世界があるように見えてもそれは一つの世界に対する様々な視点だという反論,存在論的還元を行い多くの対象領域を唯一の対象領域に還元できるという反論がありうることをGabrielは理解している。しかし,彼によれば,“立派な対象領域と見えていたものが単に話の領域であると気づくとき,客観的な言説に見えていたものにおいて問題となっているのは一言で言えば単なる無駄話だと気づくとき,人は存在論的還元に取り掛かる”27)[p. 53]。そして,“存在論的還元に取り掛かるときには,人はある対象領域をある話の領域に帰し,その話の領域が,それ自身によって想定されているように客観的ではなく,むしろ特定の歴史的,社会経済的,もしくは心理学的な偶然の出来事によって規定されているということを示す”27)[p. 54]必要があるので,“話の領域の体系的な誤謬を説明し,それを一連の誤った想定に帰する”27)[p. 54]誤謬の理論が必要になる。そのため,存在論的還元には,その領域における学問的な認識が前提とされる。したがって,多様な対象領域すべてを,唯一の対象に存在論的還元することは簡単ではない。しかし,構築主義者のような,われわれが事実を構築したのだという考えも,Gabrielによれば間違っている。たとえ構築主義者が脳研究に訴えたとしても,われわれがどのように認識するかということと,認識しているものしかないということは同じではない。
世界以外のすべてが存在するというGabrielの考えは,彼が“唯一の世界はない。そうではなく,無限に多くの諸世界だけがある。そして,それらは部分的には重なり合うが,いかなる観点でも部分的にはお互いに独立している”27)[p. 87]と言っているように,複数主義(Pluralismus)的な実在論である。
上記の議論は,Gabrielが対象領域より曖昧なものとして考えている「意味の場」にも当てはまり,たくさんの意味の場が考えられる。そして,その意味の場も対象になる,つまり,意味の場が意味の場に現象する。そのように,無限に多くのことが同時に起こっていることになるのである。“世界は,いわば,無限に何度も自分自身の中にコピーされ,小さな諸世界だけからなっている。そして,それらの小さな諸世界は,ふたたび,小さな諸世界からなっている”27)[p. 108]というのが,彼の考えなのである。われわれは,意味の場から意味の場へ動いているのである。
しかし,Gabrielによれば,われわれが無限なものの一部だけを理解でき,全体を見ることができないということは,すべては無意味だというニヒリズムに導くのではない。自然科学が世界自体を認識し,それ以外の認識は自然科学の認識に還元,もしくは従わなければならないという科学主義に基づく科学的世界像を,そもそも世界が存在しないという存在論的理由と,外から世界を眺めることができないという認識論的理由から否定するとしても,そのことは,科学の進歩を否定することではない。そのことは,構築主義者のような“誰もが自分の世界だけを見ているのであって,決して物自体を見ているのではない”27)[p. 146]という考えを導くのではない。自然科学という対象領域の中に現れるものは,自然科学という対象領域の中で現実に存在しているのである。彼によれば,物自体は様々な仕方で現れ,それらの現象そのものが一つの物自体であり,重要なのはどのような意味の場に現れるかということなのである。「新しい実在論」が主張するのは,“すべての真なる認識は,いずれも物自体(もしくは事実自体)の認識である。真なる認識は,幻覚でも幻想でもなく,物ごと自体の現象である”27)[p. 155]ということなのである。
そのように,Gabrielの「新しい実在論」は,現実に対する様々な見方を認めたうえで,それを存在論的な事実だと考える。意味の場の存在論によれば,“世界が存在しないので,無限に多くの意味の場が存在する。そして,われわれは,それらの中に投げ込まれ,またそれらの間を移行している。所与の意味の場から出発して,新しい意味の場を生み出している。そして,その際,他方,結局,この新しい意味の場を生み出すことは,決して無からの創造ではなく,意味の場をさらに変えることである”27)[p. 240]。
以上見てきたように,Gabrielは,存在について考える際に,観察者のいない世界を考えること(たとえば,唯物論)と観察者にとってだけの世界しかないと考えること(たとえば,構築主義)いう二つの選択肢だけがあるのではないということを論じ,意味の場の存在論を唱えることにより,観察者の認識に依存していることを認めたうえでわれわれの認識はわれわれが作り出したものではないと主張する「新しい実在論」を唱えるのであり,そのような実在論は,意味の場は無数にあって,その意味の場に現れることが存在するということであるという複数主義的な実在論なのである。
上記の点は論文“Existenz, realistish gedacht”26)の言葉を使って以下のように整理することができる。そこでGabrielは,反実在論を“ある対象領域に生じるすべてのものは,それが理解されるから,もしくは,それが理解されている間にだけ存在する”26)[p. 172]と考えるものだとしている。そして彼によれば,それは,“世界それ自体は,われわれが世界をどのように理解するかに依存していない”26)[p. 189]とする形而上学的実在論と対立する。なぜなら,“特定の事実のクラスもしくは特定のタイプの対象は,存在論的に特権的には基礎づけられない”26)[p. 190]と反実在論者は考えるからである。しかし,彼によれば,われわれが2ユーロでBMWを買うことができないということは作り事ではない。“認識に依存しないということは実在論の中心的なメルクマールとはまったく見なされない”29)[p. 10]。彼によれば,“実在論と複数主義は両立しうる”26)[p. 198]のであり,そのために彼が提案しているのが,意味の場の存在論を考える「新しい実在論」なのである。
C. 用語の整理
Putnamの「広い意味での形而上学的実在論」とGabrielの「新しい実在論」が,それぞれHjørlandの存在論やドメイン分析とどのように関係しうるかを検討する前に,検討の際に使用する「広い意味での存在論」・「実在論」・「反実在論」・「狭い意味での存在論」という語の整理をしておきたい。
ここでの「広い意味での存在論」は,存在するものとしてもしくは存在者として何を見なすかに関する考え(「狭い意味での存在論」)だけでなく,実在論か反実在論かということに関係する考え(「実在に関する主張」)をも含んだものとする。
「実在に関する主張」には「実在論」と「反実在論」がある。そこでは,客観的な存在者を認めるか否か,われわれの認識に依存しない真理を認めるか否かが問題になる。客観的な存在者を認めわれわれの認識に依存しない真理を認めるならば「実在論」であり,それらを認めないならば「反実在論」である。Michael Dummett30)によれば,実在論と反実在論の対立は真理に関して二値を認めるかどうかである。それによれば,実在論者は,われわれの認識から独立した客観的な真理値を持つ言明を認めるのであり,反実在論者はそのようなものを認めない。
「狭い意味での存在論」は,何を存在者と見なすかということである。物的一元論であるならば,物的存在者だけが存在すると見なすだろう。複数主義者であるならば,抽象的存在者も認めるだろう。
先に見た「Hjørlandの存在論」のタイトルにおける「存在論」は,ここでの用語によれば,「広い意味での存在論」ということになる。そして,その中に,「実在に関する主張」としての「プラグマティックな実在論」と「狭い意味での存在論」としての物的一元論が含まれている。
Putnamの「広い意味での形而上学的実在論」は上記の用語を使うならば,「広い意味での存在論」であると考えられる。それは,基本的には「実在に関する主張」であり,「狭い意味での存在論」については明確に述べられていないが,心的活動に関する寛大な機能主義が心的活動を脳に還元することを否定しているという点で「狭い意味での存在論」と関係しうる。
Gabrielの「新しい実在論」も「広い意味での存在論」であると考えられる。それは第一に,「実在に関する主張」であると考えられる。しかし,彼が世界以外のすべてが存在すると言っていたように,そこには何を存在者と見なすかの「狭い意味での存在論」も含まれている。また彼の言う「存在論」は,広い意味であれ狭い意味であれ,ここで言う「存在論」と同じではない。彼は,存在とはどういうことか,「存在する」とは何を意味するかを検討するのが存在論であるとして,意味の場の存在論を主張していたのである31)。
以上のように用語を整理したうえで,次にまず,Putnamの「広い意味での形而上学的実在論」が,Hjørlandの存在論(「広い意味での存在論」)やドメイン分析とどのように関係しうるかを検討したい。
A. Putnamの「広い意味での形而上学的実在論」とドメイン分析
Putnamの「広い意味での形而上学的実在論」が目指しているところには,Hjørlandが目指しているところと類似する点が多い。まず一つ目は,「実在論」を主張している点である。両者とも,心から独立した実在,われわれから独立した真理を認めている。Putnamが「広い意味での形而上学的実在論」で主張していることは,真理は検証可能性を越えているということである。真理はわれわれに依存するのではなく,われわれによって勝手に決めることのできない真理があるのである。そのことはわれわれの主観から独立したものが存在することを含んでいる。Hjørlandは,山はわれわれが山について考えるかどうかに依存せずに存在すると考える。そして,Hjørlandによれば,たとえば情報検索において適合性を考えるときには,目指すべきは主観的なものではなく客観的なものである。客観的な真理があることを認め,図書館情報学研究は客観的な真理を目指すべきなのである。
二つ目は,世界を記述するやり方が複数あるということを認めている点である。Putnamは,理論は意図された解釈以外の意図されない解釈を持ちうるという概念相対性を認めている。そのうえで,真理は相対的なものであると考えるような相対主義を否定しているのである。そして,Hjørlandは,社会的・歴史的視点の重要性を認める一方で,社会構築主義やポストモダニズムのように,真理が相対的であると考えることを否定しているのである。
三つ目は,何らかのものが自然科学の概念に還元できないからと言って,それが非自然主義的だと考えないという点である。Putnamが寛大な自然主義で目指していたのは,自然科学の概念への還元に囚われない自然主義である。寛大な自然主義の考えで心的活動を説明しようとするPutnamの寛大な機能主義によれば,われわれの心的活動は脳の機能に還元できないとしても非自然主義的なものではない。Hjørlandは,メンティファクトを抽象的存在者と捉えることに反対し,物的一元論を主張している一方でレベル理論を認めているが,より高いレベルのものがより低いレベルのものに還元されるからレベル理論を認められるとは主張してはいない。彼が物的一元論を主張する一方でレベル理論を認めていたのは進化の視点からである。
そのように,Putnamの「広い意味での形而上学的実在論」とHjørlandが目指しているところは似ている。ではそのような考えはHjørlandのドメイン分析についての主張とどのように関係するのだろうか。次にそのことについて見てみたい。
まず,上記の一つ目と二つ目の点についてである。HjørlandやPutnamのようにわれわれの心から独立した実在が存在し客観的な真理がありうると考え真理についての相対主義を否定する一方で概念相対性を認めること,社会的・歴史的視点の重要性を認めることは矛盾しない。Putnamによれば,世界が正確に一つのやり方で分けられるということを認めなくとも形而上学的実在論は主張できるのであった。また,Hjørlandによれば,何を存在すると見なすかは理論やパラダイムに含まれている一方で,われわれは自由に実在を生み出すことはできないのであり,われわれは心から独立した実在があるということを主張できるのであった。共通して見られるのは,われわれは自由に実在を生み出すことができないという視点である。Hjørlandは,Kuhnの変則の例を挙げ,その変則は実在の側から強制されるものだと考えていた。したがって,知識の組織化をするとき問題とするドメインは複数あるとし,ドメインごとに何を存在者と見なすか,どのようなときに知識が獲得されたと見なすかが異なることを認め,問題とするドメインを社会認識論的に分析するということを目指したとしても,われわれの心から独立した実在があり真理は相対的ではないと主張できるのである。
では三つ目の点に関してはどうだろうか。この点とドメイン分析の関係については明らかではない。Hjørlandは,レベル理論の高次のものが低次のものに還元できないとしても,メンティファクトという抽象的存在者を認める必要はなく,進化的に考えるならば,物的一元論を主張できるとしていた。つまり,「狭い意味での存在論」として物的存在者だけを認めていた。このような物的一元論は,ある一つのドメインに限った話なのだろうか。つまり問題としているドメインの中でどのような存在者を認めるかという話なのだろうか。そうだと考えるなら,そのような物的一元論はドメイン分析と矛盾しない。しかし,もし物的一元論があるドメインの中で何を存在者と見なすかということに限った話ではないとしたら,それはドメイン分析と相いれないように見える。なぜなら,ドメイン分析ではドメインが異なれば何を存在者と見なすかも異なると考えていたからである。それゆえ,「狭い意味での存在論」としての物的一元論がドメイン分析全体とどのように関係するのかが明らかにされなければならない。
では,その説明をPutnamの「広い意味での形而上学的実在論」で説明することはできるのだろうか。脳の機能に還元できないとしてもそれは非自然主義的なものではないと主張するPutnamの寛大な機能主義という考えは,確かに彼の寛大な自然主義の考えの一部であり,寛大な自然主義は彼の「広い意味での形而上学的実在論」を支えるものであるが,寛大な機能主義は寛大な自然主義すべてを説明するものではない。彼は美学や倫理学の概念が自然科学の概念に還元できないとしてもそれは非自然主義ではないと言い,具体的な問題に対してどのように説明を与えるかは個々に見ていかなければならないとしていたのである32)。そうだとするならば,Putnamの寛大な機能主義もわれわれの心的活動に限定したものであり,Putnamとの類似性から,Hjørlandの物的一元論とドメイン分析全体の関係を明らかにすることは難しい。
つまり,Hjørlandのドメイン分析は,彼が「プラグマティックな実在論」で認めたいと考えている「われわれから独立した実在の主張」と「社会的・歴史的視点の重要性」という二つの要素と矛盾しない。そして,もし物的一元論の主張がある特定のドメインでメンティファクトのような抽象的存在者を認めることができないという主張であるならば,その考えもドメイン分析とは矛盾しない(もちろん当該のドメインの中で物的一元論が適切かどうかという問題は残る)。しかし物的一元論の主張がすべてのドメインへと広げられ,客観的な真理を支えるものとしての物的存在者が考えられているのだとしたら,少なくとも,その「狭い意味での存在論」とドメイン分析全体の関係の説明が必要である。けれどもそのためには,Putnamの「広い意味での形而上学的実在論」は役に立たない。「狭い意味での存在論」に関係しうる彼の寛大な機能主義も心的活動に限定されたものだからである。
以上のように,Putnamの「広い意味での形而上学的実在論」は,Hjørlandの存在論と類似している。したがって,もしPutnamの存在論を発展させることによりHjørlandの物的一元論とドメイン分析全体の関係が明らかにできるならば,ドメイン分析を支える存在論としてHjørlandの存在論を洗練していくことは可能だろう。しかし,現時点ではその前提は満たされていない。それゆえ,他の存在論がドメイン分析を支える存在論になりうるかを検討することには意味がある。
では,「プラグマティックな実在論」が認めたい「われわれから独立した実在の主張」と「社会的・歴史的視点の重要性」の両方を認め,ドメイン分析と親和性が高いが,Hjørlandのものとは異なる存在論はないのだろうか。次に,Gabrielの「新しい実在論」がその候補になりうるかどうかを検討したい。
B. Gabrielの「新しい実在論」とドメイン分析
Gabrielの「新しい実在論」はドメイン分析とどのように関係しうるだろうか。まず,「プラグマティックな実在論」が認めたい「われわれから独立した実在の主張」と「社会的・歴史的視点の重要性」についてGabrielの「新しい実在論」がどのように考えるのかについて確認したい。
Gabrielはポストモダニズムを批判する中で,人間の存在や認識は集団的な幻覚ではないとしていた。また,われわれの認識が到達できないものとしての実在も否定していた。“この世界は,もっぱら観察者のない世界であるわけでも,もっぱら観察者の世界であるわけでもない”27)[p. 15]と主張するのが,彼の「新しい実在論」である。彼は,先に見たヴェスヴィオ山の例の場合,ヴェスヴィオ山,アストリートの視点であるソレントから見られているヴェスヴィオ山,あなたの視点であるナポリから見られているヴェスヴィオ山,筆者の視点であるナポリから見られているヴェスヴィオ山という少なくとも四つの対象が存在しているとしていたのである。そして,特定の対象を含みそれらの対象を結びつける規則を持つ対象領域を考え,対象領域が複数あるとし,それぞれの対象領域に何が属するかは対象を結びつける規則によって決まると考えていた。さらに,対象領域を含むより広い概念として何らかのものが何らかの特定の仕方で現れる領域として意味の場(意味の場と対象領域との違いは,意味の場には規定が不足するような領域も含まれうるということである)を考え,そのうえで,存在とは意味の場に現れることであるとしていたのである。
以上の点を考慮するならば,Gabrielの「新しい実在論」が,「社会的・歴史的視点の重要性」を認め得ることは明らかであるだろう。“意味の場とは,何らかのもの,特定の諸対象が,何らかの特定の仕方で現れる領域”27)[p. 91]であり,存在は意味の場に現れることであった。政治という対象領域(意味の場でもある)において,有権者や町や村のお祭りが現れるのである。“意味の場の外部には,いかなる対象も事実も存在しない。存在するものはすべて,ある意味の場に現れる”27)[p. 92]という彼の考えは,「社会的・歴史的視点の重要性」を認めることができるだろう。また,もっぱら観察者のない世界があるわけではないという彼の主張にも,その点を見ることができるだろう。
では,「われわれから独立した実在の主張」についてはどうだろうか。Gabrielは,われわれの認識が到達できないものとしての実在を否定していた。このことは,Hjørlandの主張と矛盾するのだろうか。ここにおいて,Putnamが古い形而上学的実在論を否定し,にもかかわらず相対主義を否定していたことを思い出すことが役に立つ。Putnamが古い形而上学的実在論を否定したとき,われわれが真理を勝手に変更することができるということを含んでいたのではなかった。Hjørlandが「われわれから独立した実在の主張」で意図していることも,真理が主観的なものであるということの否定であると考えられる。そのように考えるならば,Gabrielの「新しい実在論」は,Hjørlandの意図していたことを満たしている。人間の存在や認識は集団的な幻覚ではない,観察者にとっての世界だけがあるのではない,というGabrielの考えは「実在に関する主張」としては「実在論」であり,「われわれから独立した実在の主張」でHjørlandが守りたかったものを認めている。
Gabrielの「新しい実在論」においてHjørlandと相いれない点は,「狭い意味での存在論」と関係している。Gabrielは,ヴェスヴィオ山だけでなく,アストリートの視点でのヴェスヴィオ山等を認めていたのである。彼によれば,“新しい実在論は,われわれがそれについて考えている事実と同様にそれと同じ権利をもって事実についての思考も存在すると想定する”27)[p. 15]。彼の「新しい実在論」は,意味の場は無数にあってその意味の場に現れることが存在するということであるという複数主義的なものである。物的一元論35)を主張する人は複数の対象領域の一つである宇宙と世界を混同しているのであった。彼によれば,すべての存在者が宇宙のなかにあるというのは,植物学を研究しているからと言って存在するのが植物だけだと考えるようなものだった。そして,たとえば,われわれの心は物質的なものであり心の働きである思考も物質的なものであると考える物的一元論は多くの問題を含むと考えていたのである。この点に関しては,もしHjørlandの物的一元論があるドメインに限ったものであるとしたら,両者の考えは対立しない。しかし,もしHjørlandが「われわれから独立した実在」をドメイン分析一般に主張するために物的一元論を主張しようとするのだとしたら,両者は対立するのである。
では,Gabrielの「新しい実在論」とドメイン分析の関係はどうなるのだろうか。Gabrielの「対象領域」,「意味の場」はドメインと類似している。Hjørlandによれば,ドメインは一つの専門分野(discipline)である場合もあるがそうである必要はなく,主題分析の対象とも異なるものであった。ドメインは,理論的に一貫している,もしくは社会的に制度づけられている認知的分野であり,“ドメインは世界の既成の区分ではなく,ダイナミックで発展途上であり理論に依存した区分である”14)[p. 439]のだった。一方,Gabrielによれば,“対象領域とは,特定の種類の諸対象を含む領域のことである。そして,そこでは,それらの対象をお互いに結びつける規則が決まっている”27)[p. 35]ものであり,対象領域を含むが対象領域と異なり規定が不足していることもありうるより広い概念としての“意味の場とは,何らかのもの,特定の諸対象が,何らかの特定の仕方で現れる領域である”27)[p. 91]のだった。
そのように「対象領域」,「意味の場」とドメインが類似しているだけでなく,ドメイン分析と意味の場の存在論も親和性が高い。Hjørlandによれば,ドメイン分析は,社会学的視点と認識論的視点を統合した視点から問題にアプローチし,主題知識の重要性を強調するという特徴を持っていた。そして,ドメイン分析的アプローチが次のようになされると言っていた。
- メインを一つ選び,そのドメインに行きなさい。
- 現代の知識(異なる見解も含む)に従って,それがどのように分類されるかを見なさい。
- そのドメインの基礎や,認識論的仮定を議論し,提案されている分類がどのような興味に役立つのかを議論しなさい。
- 以上の仮定から想定される分類を示しなさい9)[p. 21]。
もちろん,これは,知識の組織化という視点からなされたものであるので具体的である一方で,「意味の場の存在論」は具体的な知識の組織化の方法を提案するものではない。しかし,“意味の場の外部には,いかなる対象も事実も存在しない。存在するものはすべて,ある意味の場に現れる”27)[p. 92]という考えは,意味の場において対象や事実を考えなければならず,意味の場を離れて対象や事実を考えることができないということを主張しており,その考えはドメイン分析と親和性があると考えられるのである。
以上のように見てくるならば,複数のドメインを認め,それぞれのドメインでの社会的・歴史的視点を重要視しながら図書館情報学研究において客観的な真理を追究すべきだというHjørlandの「実在に関する主張」としての「実在論」とドメイン分析の主張は,Gabrielの「新しい実在論」においても共に認めることができる。
もちろん,「狭い意味での存在論」に関するHjørlandとGabrielの対立をどのように考えるかという問題は残っている。Hjørlandは物的一元論を主張していた一方で,Gabrielは抽象的存在者,たとえば事実についての思考の存在を認めていた。この問題については,二つの可能性を分けて考える必要があるだろう。一つは,Hjørlandの物的一元論があるドメインに限ったものである場合である。もしそのドメインがGabrielの言う「宇宙」という対象領域であるならば,ここで問題になるのは,Gabrielが「宇宙」という対象領域で物的一元論を認めるかどうかということになる。もう一つは,Hjørlandの物的一元論が全ドメインで当てはまるものと考えている場合である。この場合はGabrielと明らかに対立する。それゆえ,どちらの考えがより適切かが検討されなければならない。けれども,社会的・歴史的視点を重要視しながら図書館情報学研究において客観的な真理を追究するための方法としてのドメイン分析というHjørlandの主張を支えるものとして,Gabrielの「新しい実在論」の立場も候補になりうるということは言えるだろう。
本論では,Hjørlandが知識の組織化において主張しているドメイン分析が目指しているところと矛盾はしないが,Hjørlandのものとは異なる存在論もありうるのではないかということを検討してきた。そのために第II章では,Hjørlandが図書館情報学研究においてどのような存在論が必要だと考えていたかを確認した。彼が主張していたのは,物的一元論と「プラグマティックな実在論」であった。次に第III章では,Hjørlandが主張しているドメイン分析とはどのようなものかを明らかにした。ドメイン分析とは,行為者がそこで社会化される当該のドメインにおける社会的文脈等に着目し,知識の組織化を行おうとするものであった。第IV章A節とB節では,Hjørlandの存在論とドメイン分析の関係を理解するために,それぞれPutnamの「広い意味での形而上学的実在論」とGabrielの「新しい実在論」について概観した。前者は,理論は意図された解釈以外の意図されない解釈を持ちうるという概念相対性を認めたうえで検証可能性を越えた真理を認めることができるということを主張するものであり,後者は,観察者のいない世界でも観察者しかいない世界でもない実在を主張していた。そして,第IV章C節で分析に使う用語の整理をしたうえで,第V章A節とB節で,Hjørlandの存在論やドメイン分析とPutnamやGabrielの考えとの類似点や相違点について検討し,社会的・歴史的視点を重要視しながら図書館情報学研究において客観的な真理を追究するための方法としてのドメイン分析というHjørlandの主張を支えるものとして,Gabrielの「新しい実在論」の立場も候補になりうるということを明らかにした。
もちろん,Hjørlandが物的一元論とドメイン分析の間の関係をどのように考えていたのかという問題や,物的一元論を特定のドメインに限った主張とした場合その特定のドメインにおいて物的一元論が適切なのかという問題,「狭い意味での存在論」に関するHjørlandとGabrielの対立をどのように考えるかという問題は残っている。また,本論ではHjørlandの物的一元論と研究方法のかかわりについて扱ったが,Gnoliの複数主義と研究方法のかかわりを検討するという問題も残っている。それらについては今後の課題であると考える。
謝辞Acknowledgments
本研究は,JSPS科研費21K00001の助成を受けたものです。筑波大学名誉教授の緑川信之先生には,知識の組織化について多くのご教示をいただき,また全体に関しても相談にのっていただき,貴重なご助言をいただきました。深くお礼申し上げます。
引用文献References
1) 横山幹子.哲学と図書館情報学の関係:図書館情報学における哲学に関する英語論文を基に.Library and Information Science. 2014, no. 71, p. 75–97.
2) Hjørland, B. Empiricism, rationalism and positivism in library and information science. The Journal of Documentation. 2005, vol. 61, no. 1, p. 130–155.
3) Hjørland, B. “Indexing: Concepts and theory”. ISKO Encyclopedia of Knowledge Organization. Hjørland, B., ed. ISKO, 2018, www.isko.org/cyclo/indexing, (accessed 2021-11-01).
4) Gnoli, C. Mentefacts as a missing level in theory of information science. The Journal of Documentation. 2018, vol. 74, no. 6, p. 1226–1242.
5) Hjørland, B. The foundation of information science: One world or three? A discussion of Gnoli (2018). The Journal of Documentation. 2019, vol. 75, no. 1, p. 164–171.
6) 横山幹子.図書館情報学における存在論の対立:Gnoliの存在論的複数主義とHjørlandの存在論的一元論の比較.Library and Information Science. 2020, no. 84, p. 1–21.
7) Hjørland, B. Arguments for philosophical realism in library and information science. Library Trends. 2004, vol. 52, no. 3, p. 488–506.
8) 横山1)でのHjørlandの該当箇所のまとめと多少重なるところはあるが本議論に必要な範囲で再度まとめている.
9) Hjørland, B. Information retrieval and knowledge organization: A perspective from the philosophy of science. Information. 2021, vol. 12, no. 3, 135. https://doi.org/10.3390/info12030135 (accessed 2022-02-07).
10) 前者に関しては横山6)において概観しているが,本議論に必要な範囲で再度まとめている.
11) Ogden, C. K.; Richards, I. A. The Meaning of Meaning: A Study of the Influence of Language upon Thought and of the Science of Symbolism. 10th ed., Routledge & Kegan Paul, 1949, 363p.(日本語訳:意味の意味.石橋幸太郎訳.新泉社,1967, 471p.)
12) プラグマティズムとは“人間の精神活動に関してそれまでの理論のようにアトミスティックな観念の内観的な直観をモデルにして考える視点を退け,むしろ現実の生における具体的な行為の中で精神活動が果たす役割を見る視点に重心を置いて,そこから科学論・道徳観・存在論を改変し直そうという思想”(“プラグマティズム”.岩波哲学・思想事典.廣松渉ほか編.岩波書店,1998. p. 1395)。そのような考えでは,ある理論を受け入れることがわれわれの精神活動にどのような影響を与えるかが問題である.
13) 「客観化された精神」はHartmannに由来する。Hartmannは,物質的なもの,有機的なもの,心的なもの,精神的なものの四つのレベルを考え,精神的なレベルには三つのレイアーがあるとする。その中の一つが「客観化された精神」である。「世界3」はPopperの考えで,ここでは「客観化された精神」と類似したものと考えられている。それらはともに,意識によって生み出されたが意識からは独立した存在とされる。Gnoli4)によれば,知識の組織化におけるアーティファクトは有形文化遺産と,メンティファクトは無形文化遺産と考えられ,アーティファクトもメンティファクトも「客観化された精神」や「世界3」の一部である。詳しくは,横山6)参照.
14) Hjørland, B. Domain analysis. Knowledge Organization. 2017, vol. 44, no. 6, p. 436–464. 引用の際の強調は原著者。本論では,Hjørlandの考えるドメイン分析と存在論の関係を検討するため,Hjørlandのドメイン分析についての考えを扱い,彼のドメイン分析についての考えが普遍的なものかどうかの検討はまた別の論文に譲る.
15) Hjørland, B.; Albrechtsen, H. Toward a new horizon in information science: Domain-analysis. Journal of the American Society for Information Science. 1995, vol. 46, no. 6, p. 400–425.
16) Hjørland, B. Domain analysis in information science: Eleven approaches- traditional as well as innovative. The Journal of Documentation. 2002, vol. 58, no. 4, p. 422–462.
17) Hjørland, B. Afterword: Ontological, epistemological and sociological dimensions of domains. Knowledge Organization. 2003, vol. 30, no. 3-4, p. 239–245.
18) ここでの存在論的コミットメントとは,何を存在するもの,存在者と見なすかであり,認識論的コミットメントとは,認識についてどのように考えるかということである.
19) Ørom, A. Knowledge organization in the domain of art studies: History, transition and conceptual changes. Knowledge Organization. 2003, vol. 30, no. 3-4, p. 128–143.
20) 横山幹子.知識と実在論:パトナムの場合.図書館情報メディア研究.2003, vol. 1, no. 1, p. 11–22.
21) Putnam, H. The Threefold Cord: Mind, Body, and World. Columbia University Press, 1999, 234p.(日本語訳:心・身体・世界:三つの撚り糸/自然な実在論.野本和幸監訳.法政大学出版局,2005, 291p.)引用箇所のページ数は原著,訳は筆者.
22) Putnam, H. “Perception without sense data”. De Caro, M. ed. Naturalism, Realism, and Normativity. Harvard University Press, 2016, p. 152–168.
23) Putnam, H. “Naturalism, realism, and normativity”. De Caro, M. ed. Naturalism, Realism, and Normativity. Harvard University Press, 2016, p. 21–43.
24) Putnam, H. Reason, Truth and History. Cambridge University Press, 1981, 222p. (日本語訳:理性・真理・歴史.野本和幸監訳.法政大学出版局,1994, 338p.)引用箇所のページ数は原著,訳は筆者.引用の際の強調は原著者.
25) Putnam, H. “Corresponding with reality”. De Caro, M.; Macarthur, D. eds. Philosophy in an Age of Science: Physics, Mathematics, and Skepticism. Harvard University Press, 2012, p. 72–90.
26) Gabriel, M. “Existenz, realistish gedacht”. Gabriel, M. ed. Der Neue Realismus. Suhrkamp, 2014, p. 171–199. 引用の際の強調は原著者.
27) Gabriel, M. Warum es die Welt nicht gibt. Ullstein, 2015, 271p. (日本語訳:なぜ世界は存在しないのか.清水一浩訳.講談社,2018, 335p.)引用箇所のページ数は原著,訳は筆者.引用の際の強調は原著者.
28) ここでの唯物論は今まで「物的一元論」と言ってきたものと同じであるが,Gabrielが「唯物論」という語を使用しているので,本章では「唯物論」という語を使う.
29) Gabriel, M. “Einleitung”. Gabriel, M. ed. Der Neue Realismus. Suhrkamp, 2014, p. 8–16.
30) Dummett, M. “Realism”. Truth and Other Enigmas. Harvard University Press, 1978, p. 145–165.(日本語訳:“実在論”.真理という謎.藤田晋吾訳.勁草書房,1986, p. 93-127.)
31) もちろん,Gabrielの言う「存在論」も「広い意味での存在論」に含めることも可能であり,「存在とは何か」を問うことは重要な問題である。しかし,話を不必要に複雑にしないため,本論ではGabrielの言う「存在論」については詳説しない.
32) 私自身,以前は,寛大な自然主義は寛大な機能主義で説明できると考えていた33)34)。しかし現在は,寛大な機能主義は,心的活動や能力を自然科学の概念に還元しなくともそれらを非自然主義的なものと考えることなく説明するためのものであり,寛大な機能主義の主張だけでは寛大な自然主義一般を主張することはできないと考える.
33) 横山幹子.パトナムの選言説批判とリベラルな自然主義.図書館情報メディア研究.vol. 15, no. 2, 2018, p. 1–15.
34) 横山幹子.パトナムの寛大な自然主義:「自然主義」に着目して.図書館情報メディア研究.vol. 16, no. 2, 2019, p. 1–15.
35) Gabrielの考えを概観しているところでは「唯物論」を使った(注29参照)が,本章では混乱を防ぐために「物的一元論」とする.